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「大衆食堂」の呼称が生まれる時代の林芙美子『放浪記』と食風俗 メモ

メモなので、整理されてない。思いつくままに追記される。

「大衆食堂」という呼称は、「大衆」という言葉が流行する昭和のはじめ、1925年前後に生まれたか一般化したとみられる。それは、林芙美子の『放浪記』が書かれ出版されベストセラーになる時代だが。

ご参考=ザ大衆食「食堂の歴史あれこれ」

『放浪記』には、飲食や飲食物が登場する場面が多い。「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」とおっしゃった林芙美子の『新版 放浪記』(79新潮文庫)から、飲食や食べ物の場面を、ポツポツひろってみようか。コツコツいつまで続くかわからない作業。

大正15年・昭和元年前後つまり1925年前後の、林芙美子が20歳前後からの数年間の放浪記の時代だ。解説によれば、「『放浪記』の第一部・第二部・第三部というのは、その順に従って書かれたという意味ではない。作者は大正十一年(一九二二)から大正十五年まで、五年にわたって書きためてきた日記ふうの雑記帳のなかから、雑誌発表にふさわしいと思ったものを任意に抜き出して、長谷川時雨編集の「女人芸術」誌に昭和三年(一九二八)十月から連載、それで注目されて同五年七月改造社から単行本の『放浪記』が出たが、……」



林芙美子 1903−1951
「1918年尾道高女に入学。22年卒業すると愛人を追って上京。翌年婚約を破棄され、日記をつけることで傷心を慰めたが、これが『放浪記』の原形となった。手塚緑敏という画学生と結ばれてから生活が安定し、28年「女人芸術」に「放浪記」の副題を付けた「秋が来たんだ」の連載を開始。30年『放浪記』が出版されベストセラーとなる。」

ほんとうは、この小説は、あまり好きではない。いかにもクサイ。貧乏のなか自力で女学校を出たとはいえ、「当時としてインテリ」であることにはちがいない。そういう臭さがある。「洗練」といわれるらしいのだが。しかし、貧乏人が多い現実では、貧乏体験も売れる小説のネタになる。貧乏は、かなしい。貧乏は、同情をさそう。貧乏であるだけで感傷的、ブンガク的だ。でも、貧乏なだけでは、売れる小説は書けない。林芙美子には、やはり才能があったということか。この時代は、貧乏人だらけ。いまだって?

とにかく、この版は、林芙美子が「成功者」になってからまとめ直したものだそうで、もとの原本を読むとちがうのかも知れない。「原『放浪記』が一生に一度しか書けない進行形の〈青春の書〉ならば、いま流布している『放浪記』は〈成功者の自伝〉である。文庫の〈決定版〉に魅かれた人は、この〈改造社版〉を読めば、またちがう感動が得られるであろう」(巻末エッセイ・森まゆみ「立ちはだかるもの、すべて栄養――林芙美子の転々」)。ということだそうだ。
http://www.msz.co.jp/titles/08000_09999/ISBN4-622-08044-3.htmlより。

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