「大衆食堂」の呼称が生まれる時代の林芙美子『放浪記』と食風俗 メモ2 p106まで


p51(四月×日)
私は男を二階に振り捨てると、動坂の町へ出て行った。誰も彼も握手しましょう、ワンタンの屋台に首をつっこんで、まず支那酒をかたぶけて、私は味気ない男の旅愁を吐き捨てた。

男に食わしてもらう事は、泥を噛んでいるよりも辛いことです。体(てい)のいい仕事よりもと、私のさがした職業は牛屋の女中さん。「ロースあおり一丁願いますッ。」

どこを貧乏風が吹くかと、部屋の中は甘味(おい)しそうな肉の煮える匂いでいっぱいだ。

「12時になっても、この店は素晴らしい繁昌ぶりで、」

p52
・女中が客にたかる。
「たあさん、私水菓子ね……」
「あら私もかもなんよ……」
まるで野生の集まりだ、笑っては食い、笑っては食い、

・なんだかイマドキのクラブの女と客の男の風情でもある。芙美子の借間は田端にあって、この牛屋は神田。夜遅く市電がなくなると歩いて帰る。「品物のように冷たい男のそばへ……。」


p54
・古里の男が十五円の金を送って「じき帰っておいで」、で、イマの男と別れて

汐の香のしみた私の古里へ私は帰ってゆくのだ。ああ何もかも逝(い)ってしまってくれ、私には何も用はない。男と私は精養軒の白い食卓につくと、日本料理でささやかな別宴を張った。

・たぶん上野の精養軒だろう。

p59
「いま、この田端の家へ帰って来たはずだのに――。半月もたたないうちに又別居だとは」

私は宿酔(ふつかよ)いと空腹で、ヒョロヒョロしている体を立たせて、ありったけの土釜に入れて井戸端に出て行った。階下の人達は皆風呂に出ていたので私はきがねもなく、大きい音をたてて米をサクサク洗ってみたのです。

p61
本当にいつになったら、世間のひとのように、こぢんまりとした食卓をかこんで、呑気(のんき)に御飯が食べられる身分になるのかしらと思う。

p62
今日は隣の八畳の部屋に別れた男の友達の、五十里(いそり)さんが越して来る日だ。私は何故か、あの男の魂胆がありそうな気がして不安だった。――飯屋へ行く路地、お地蔵様へ線香を買って上げる。

帰りに南天堂に寄って……冷たいコーヒーを飲んでいる肩を叩いて、辻さんが(・辻潤のこと)……

p63
夕方から銀座の松月と云うカフエーへ行った。ドンの詩の展覧会がここであるからだ。

・カフェで展覧会は、イマちょっとしたハヤリのようだが、このころもなのか?


p71
・三宿の停留場で腹をすかしてめまいがしそうだったとき声をかけてきた二人の老婆についって行った先は天理教の教会だった。

白い着物を着た中年の神主さんが、私にアンパンと茶をすすめながら、私の侘しい姿を見てたずねた。

私はもうたまらなくなって、うまそうなアンパンを一つ摘(つま)んで食べた。一口噛(か)むと案外固くって粉がボロボロ膝にこぼれ落ちている。

p75
荻原さん(・荻原恭次郎のこと)が遊びにみえる。
酒は呑みたし金はなしで、敷蒲団を一枚屑屋に一円五十銭で売って焼酎(しょうちゅう)を買うなり。お米が足りなかったのでうどんの玉を買ってみんなで食べた。

ああ若い私達よ、いいじゃありませんか、いいじゃないか、唄を知らない人達は、啄木を高唱してうどんをつつき焼酎を呑んでいる。

・焼酎はビンボー人が呑む酒だった。そういえば、「民衆の酒 焼酎は」という「赤旗」の替え歌は、いつごろのものか?


p77(七月×日)
「ねえ、洋食を食べない?」
「ヘエ?」
カレーライスカツライス、それともビフテキ?」
「金があるのかい?」
「うん、だって背に腹はかえられないでしょう、だから晩に洋食を取れば、明日の朝までは金を取りにこないでしょう」
洋食をとって、初めて肉の匂いをかぎ、ずるずるした油をなめていると、めまいがしそうに嬉しくなってくる。

イビツな男とニンシキフソクの女では、一生たったとて白い御飯が食えそうにありません。

・「白い御飯」は、フツウの生活の意味か? それともヨイ生活のこと?

p82(七月×日)
女たちはアスパラガスのように、ドロドロと白粉(おしろい)をつけかけたまま皆だらしなく寝そべって蜜豆(みつまめ)を食べている。

・この場合のアスパラガスは、ホワイトのアスパラガスのことだろうが、缶詰か?

p84(八月×日)
酒場ではお上さんが、一本のキング・オブ・キングスを清水で七本に利殖しているのだ。埃と、むし暑さ、を沢山呑むと、髪の毛が抜けると云うけれど、氷を飲まない由ちゃんも、冷蔵庫から氷の塊を盗んで来ては、一人でハリハリ噛んでいる。

p87(八月×日)
何の条件もなく、一ヵ月三十円もくれる人があったら、私は満々としたいい生活が出来るだろうと思う。

p87(十月×日)
秋が来た。コック部屋で御飯を食べながら、私は遠い田舎の秋を懐かしく思った。

p87(十月×日)
ドラ焼を買って皆と食べた。

p92(十月×日)
秋ちゃんは大変言葉が美しいので、昼間の三十銭の定食組の大学生達は、マーガレットのように秋ちゃんをカンゲイした。

p92(十月×日)
広い食堂を片付けている間に、コックや皿洗い達が先湯をつかって、二階の広座敷へ寝てしまうと、

p95(十月×日)
私達は学生や定食の客ばかりではどうすることもできなかった。

・俊ちゃんと2人で逃げ出し

そば屋の出前持ちの親切で、円タクを一台頼んでもらうと、二人は約束しておいた新宿の八百屋の二階へ越して行った。

p98(十月×日)
焼栗の声がなつかしい頃になった。廓を流して行く焼栗屋のにぶい声を聞いていると、妙に淋しくなってしまって、

・廓の出口にある侘しいカフェーの二階に、歯を病んで寝ている。もらいはかなりある。

今朝から何も食べてない私の鼻穴に、プンと海苔(のり)の香をただよわせて、お君さんは枕元に寿司皿を置いた。

p99(十月×日)
今朝も泥のような味噌汁と残り飯かと思うと、支那そばでも食べたいなあと思う。

p101(十一月×日)
秋刀魚(さんま)を焼く匂いは季節の呼び声だ。夕方になると、廓の中は今日も秋刀魚の臭い、お女郎は毎日秋刀魚ばかりたべさせられて、体中にうろこが浮いてくるだろう。

キング・オブ・キングスを十杯飲んでごらん、十円のかけだ!

p105(十一月×日)
おでん屋の屋台に首を突っ込んで、箸(はし)につみれを突きさした初ちゃんが店の灯を消して一生懸命茶飯をたべていた。

p106(十二月×日)
浅草は酒を呑むによいところ。浅草は酒にさめてもよいところだ。一杯五銭の甘酒、一杯五銭のしる粉、一串(くし)二銭の焼鳥は何と肩のはらない御馳走だろう。

p106(十二月×日)
・三畳の部屋をかりている

おでん屋でもしようかと思う。……コンニャクがんもどき竹輪につみれ辛子のひりりっとしたのに、口にふくむような酒をつかって、青々としたほうれん草のひたしですか、


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