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『大衆食堂の研究』復刻HTML版          エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


編外編*食堂誌史試論

●食堂に起源はあるか●
  「一膳飯」は盛りきり一杯の飯のことだ。
  ――『新編大言海』には「一膳飯」にこのような説明がある。
  「路傍ノ屋臺店ナドニテ、飯ヲ、器二一杯ヅツ盛切ニテ、賣ルモノ。賎人ノ食ナリ。」
  この典拠に、江戸初期・寛永年間の『見た京物語』から「一ぜんめしノ看板アリ」をあげている。寛永は一六二四年から二〇年近くつづいた。この「一ぜんめし」の看板をさげての路傍の商売こそ、食堂の源のひとつといえる。しかし、これは源流の最初の一滴ではない。そんなものはわからない。たまたま『見た京物語』に記録されていて、たまたま誰かがそれを発見しただけだ。この時期にこの商売がはじまったとはかぎらない。もっと前にもあったとじゅうぶん考えられる。そのほうが自然である。
  「賎人ノ食ナリ」というところがどういう根拠かわからないが、ま、この世にはいつでも貴と賎しかなく、外食は賎のすることだった。これは西欧でもおなじだったらしい。
  ――『無遠慮な文化誌』(フランク・ミューア著、中西秀男訳、筑摩書房)にはイギリスのことだが、こうある。
  「元来、外で食事するのは下層社会の習慣で、必要止むを得ざるところから発生した。中世時代、一般庶民の住居には煙突もなければ暖炉もなく料理の設備は一切なかった。」
  さらに。あのパリのレストランの出現だ。
  「一七六三年のことである。パリヘ食堂(ダイニングルーム)と称する店を出して上等のスープを売っていたムッシュ・ブーランジェが店の表へ看板を出した。ラテン語でこう書いてある――『なんじ、疲れたる者よ、われに来たれ。われ、なんじに元気を恢復(レストアーレ)せしめん』この店のスープが『レストラン』の名で有名になり、やがて店そのものが『レストラン』と呼ばれるようになり、遂には高級な食事を出す店はすべてレストランになった。
  一八八○年になるとフランス風のレストラン――つまり食事もワインも上等な高級優雅な店がロンドンに出現した。ただし、値段は決して安くない――」
  やっぱり革命的創造は下層の暮らしからはじまるのだ。そして上層の連中はそれをカネで我が物にし、高級なものにしてしまう。だけど何も生まない。
  「なんじ、疲れたる者よ、われに来たれ。われ、なんじに元気を恢復せしめん」は、まさに、いまの食堂にも共通する根本理念ではないか。
  日本のレストランは、高級というつまらないところだけを真似したようだし、いまではレストランという看板をかかげるだけで、食堂より何割増しから何倍も高いカネをとるところもすくなくないゾ。

●一膳めし屋の繁盛●
  京都の「賎人ノ食」だった「一ぜんめし」は、約二世紀のあいだに、花のお江戸の立派な店の売り物になってしまった。そこに「一膳めし文化」のひろがりと成立がみてとれる。
  ――『定本江戸商売図絵』(三谷一馬、立風書房)の「一膳飯屋・飯屋」の項には、絵が二つのっている。出典は、ひとつは弘化元年(一八四四年)の歌川国芳画、『教訓乳母草紙』、ひとつは文化一〇年(一八一三年)の月麿、国安、美麿画、『方言修業 金草鞋』である。
  玄関土間から入れ込みの畳の店にあがろうとしている客や、すでに膳にむかって食べている客などが描かれている。酒を飲んでいるのもいる。テレビの水戸黄門に登場する街道沿いの茶店などとはちがって、意外に、立派な店がまえである。前者の絵の店先には、これも意外にしゃれた行灯看板なんぞがあって、「一ぜんめし」「どんぶりめし」とひらがなで書かれてある。
  そして明治である。
  ――『千曲川のスケッチ』は、島崎藤村が明治三二年から七年間、長野県・小諸で過ごしたときのスケッチだが、「一ぜんめし」という章があって、その書き出しはこうである。
  「私は外出した序(ついで)に時々立寄って焚火(たきび)にあてて貰(もら)う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処(おやすみどころ)、揚羽屋(あげばや)とした看板の出してあるのがそれだ。」
  『見た京物語』の「一ぜんめし」とおなじ看板を、信州小諸で、藤村は見ているのである。見ただけでなく、親しく交わった。
  「そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。斯ういう暗い屋根の下も、煤けた壁も、汚れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。(略)次第に心易くなって見れば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。」
  しかもあいかわらず「下層」の人々が集まるところであって、そこには「人間交流」を土台にした関係があった。

●お好み食堂誕生●
  明治になると、ようするに「和食」一本だったところに「洋」がはいってきた。
  ――『明治東京逸聞史1』森銑三 明治二〇年の章「料理屋<同上 (注―百人百色(西森武城著)>」
  「同じくその書に(注―百人百色のことである)「割烹店」の一章もあって、おいおいに西洋風の安料理が出来るものだから、その方へ客の足が向く。どれ、おれもこれから西洋料理を始めて、刺身でも、ビフテキでも、御注文通り、どっちでもお出なさいと、両天秤にやらかそうか、と独語するところがある。」
  これは「三越や白木屋で、洋服にも手を伸ばしたことが、当時は異様に感ぜられていたのだった。」ころのことだったそうである。

●放浪する田舎者のめし●
  一膳めし屋は誕生のときから、田舎から都へ流れてきたものがたどりつくところだった。
  ――『放浪記』林芙美子
  「朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。(略)私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた。まことに貧しき山海の珍味である。合計十二銭也を払って、のれんを出ると、どうもありがとうと女中さんが云ってくれる。お茶をたらふく呑んで、朝のあいさつを交わして、十二銭なのだ。どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとうに朗かだと思う。」
  この一文は、おれは嫌いである。「まことに貧しき山海の珍味である」というところに、いかにも知識人ポイいやらしさがある。貧乏センチメンタリズム、いやだね。いじましいね。庶民のおおらかさがないね。もっと素直によろこんで、ガバッとくえないのか。それに、庶民にとっては、どんなものでもくうときはご馳走気分というのが暮らしの中の食だ。そんなときに「光明と紙一重」だなんて考えるやつがいるか。こういう感性のやつには食堂にきてほしくない。

●オムライスの唄●
  カレーライスは、いちばんどこにでもあるメニューである。そして、食堂の花形となると、やっぱりオムライスである。
  ――『小説の散歩みち』(池波正太郎、朝日文庫)「なつかしの味」
  「何という、うまいものを日本人は考え出したことか――。
  どんな、ひなびた町の、どんな小さな食堂で食べても、このオムライスの味覚に失望したことはない。」
  オムライスをつきつめると、「器一杯のめし」にいたる。いや、そんなにつきつめなくてもいい。単純なはなしが、食堂でオムライスやチャーハンなどをつくっているところをみると、あらかじめ器にメシを盛っておいて、それをフライパンにぱっとあけたりしている。
  オムライスは、器一杯のめしの料理なのである。カレーライスやカツ丼や中華丼などもそうである。この「器一杯のめし」こそ「一膳めし」のことである。これらは「ごはんもの」と呼ばれ、「一皿盛り」だったり、「丼物」だったり、あるいは「定食」のように丼めし一杯と汁とお新香とおかずのセットだったりするのだが、すべて一膳めしのバリエーションにほかならない。
  そしてこれだけいろいろな一膳めしの食べ方ができてしまったのには、日本人の食欲のみたしかたの共通イメージとして、一膳めしがあったからだと想像できる。おれたちは食欲のみたしかたをそんなに真剣に考えないですんでいるが、それは、共通文化としての「一膳めし文化」をすでに体内にかかえているからなのだ。
  「めし」は、たとえスープにスパゲティにサラダにパンであれ、それが器一杯のめしの食欲の癒しに値するなら「めし」であり、不足のものなら「めし」とはいわずに、「おやつ」とか、「スナック」とか、「間食」あるいは「軽食」とか、あるいは単に「ラーメン」などというであろう。そのように「一膳めし」は、食欲をみたす抽象の単位にまでなっていることに思い当たる。

●戦後の食堂●
  旅は駅前食堂。
  ――『阿房列車』内田百聞「青森駅前」
  「その内に支那蕎麦が出来て来た。向うのテーブルのお客はカツレツ弁当を食べてゐる。一品料理も出来るらしい。焼け跡に建つた新装の食堂である。」
  青森県といえば、食堂の似合う寺山修二。食堂がなぜ似合うかといえば、戦後・彼は戦死した父の兄だか弟のところに母と身をよせる。そこが、当時はちがう駅名だったが、いまでいうJR三沢駅前の「寺山食堂」だった。
  寺山の「スーパーマン東京零年」の途中一節。

    ぼくは忘れもしない
    大衆食堂の片隅で一皿五十円の
    ライスカレーを食べながら捨ててあった
    その日の新聞を読んだときのことを
    「スーパーマン俳優
    ジョージ・リーブス首吊り自殺」

  食堂には、食堂でとっている新聞のほかに、客がよんではおいていくスポーツ紙や漫画週刊誌がおいてあるところがおおい。そこから思わぬジケンに遭遇する。で、いろいろ世間がひろくなる。狭量の知識人というのは困ったもので、そういうのがある食堂を下品でくいものもまずいようにいうやつがいる。食堂でめしくいながら、そういう説教するな。

●現代の一膳めし屋●
  『近代日本職業事典』(松田良一著、柏書房)には、「一膳めし屋」の項がある。そこには、『千曲川のスケッチ』の「一ぜんめし」を紹介して、最後にこうある。
  「外の建設工事現場で働いている労務者や水道工事、電気工事の職人、セールスマンがよく利用する。」
  ずいぶん具体的に職業をだしていて、とまどってしまう。食堂は肉体派のイメージなのだ。しかも「外」の肉体派である。
  いかがわしい肉体派労働者諸君、ファミリーレストランヘ行くな! いかがわしい食堂で団結せよ!

●大家の一言●
  日本料理の大家・辻嘉一さんは『料理心得帳』の中の「現代飲食店心得」で、「日本ソバ屋なら、具を入れない、モリソバで勝負すべきだ」といっている。専門料理店の看板をあげるからには、それだけで、勝負すべきである。それでなくては料理店とはいえないという職人としての美学だ。一般の客がそこまで望んでいるかどうかはともかくとして、それなりに理解できるものである。どうぞみなさんそうしてください。するとやっぱり。すし屋はすしで勝負する、ラーメン屋はラーメンで勝負する……ということになるだろうが、それでは、食堂は何で勝負すべきか。
  おもしろいことに辻嘉一サンは、モリソバで勝負すべきだのあとに、ちゃんとこのようなことをいっている。
  「最後に、外食専門の食堂に望みたいことがあります。
  まず第一に愛情を籠(こ)めたサービス、第二に時間を決めて店を開く、この二つを是非、実行していただきたいと思います。
  外食食堂を利用するお客さまは、通りすがりの客種とは違い、いつも決まって利用される方が多く、顔ぶれもある程度定まっていますから、安くておいしいものを食べていただくことが大切です。そのほとんどは独身者でしょうし、いわば家庭の食卓の延長でもあるわけですから、連帯感を伴った細やかな愛情で接してあげることです。」
  おれは「連帯感」というのに単純によろこんだ。さすが大家だ。しかし、やっぱり、安くてうまい物に、愛情と営業時間で勝負はさびしい。もっと何か、その、何かいいようがないのか。やっぱり、あきらめずに、「惰性に流れやすいまいにちを、惰性にながれず、緊張感のある舌をつかって、日々おかずの向上をはかれ」とでもいってほしかった。
  いま食堂をおいて、愛情と連帯にまさる飲食店はない。それはいい。だけど、やはり料理の向
上はつねに必要なのだ。


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