『大衆食堂の研究』復刻HTML版          エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


思えば…編*田舎者の道

*四、ジャンク者の誕生*

  さて、渋食や三平のような大食堂ではなく、一九六〇年代前半の大衆食堂といえば、背の低い粗末な木造家屋にダラリの薄汚い紺暖簾です。
  街並みのあるところにはだいたいそういう食堂があって、田舎者が日常利用するのはこちらだった。
  そのたたずまいは、どこか、「肉体的」である。「ターザン」の肉体ではない。「肉体労働者」ってことですね。「肉体労働者」というと田舎者であり、どこか粗暴、というのが当時もいまもかわらない、イナカモノがつくったイメージです。ま、薄汚いことはたしかだった。
  スモッグが「流行る」のは六二年のことである。そのまま定着した。当時は、食堂にかぎらず、都心ですら街は「木造」が主流だった。だから、空は広かった。しかし、いまよりずっと広い空はスモッグ色で、その底で街は轟いていた。
  最近の建造物は、薄汚い灰色をシルバーグレーだなんて輝かしいものであるかのように表現し、スモッグ色を欺瞞して美しいふりしてそびえている。が、昔の正直の木造の家々は、スモッグに侵されるとスモッグ色に染まった。すると、一戸一戸は薄汚くて、集合状態では荒廃の情景だった。
  新宿だって渋谷だってタマラン汚さと臭さだった。はじめての田舎者にとってはツバもタンもクソもかけたくなる光景だった。かの湘南海岸に行き、あまりの汚い現実を目の当たりにすると、ユーミンの写真を敷いて野糞を残してきたくなるようなものだ。しかしミンナわりと平気な顔しているし、そのうちにこちらも馴れる。ジワリと都会のイカれた感覚にはまってゆくのがわかった。
  そんな街中にあらわれたのが吉永小百合サンでした。暴力的気分もこのひとのまえでは萎えてしまいます。
  なぜスモッグなのかというと、急増したクルマのほかにも、なにせ昭和三〇年代というのは工業化の時代だから、街には煙突がたくさんたっていたのだ。それで映画『キューポラのある街』なのです。
  吉永小百合は、埼玉県の鋳物工場の町、薄汚い川口の、なんであれが小百合チャンのオヤジなんだ、と怒りたくなるくらい薄汚い家の、薄汚い時代遅れの職人根性ジジイの娘役で、初潮をむかえんとする清純な乙女ということだった。
  『キューポラのある街』には、いまでも美しい吉永小百合サンの他に、「鶴亀食堂」が登場し、この映画をジャンク史的価値あらしめている。
「鶴亀食堂」は、当時の食堂のたたずまいを代表しているといっていい。
  短いシーンなのだが、貧相な木造家屋の低い軒下に、地面にとどきそうにジトーっと垂れ下がる大きな暖簾は白黒映画だが薄汚い紺色にみえたし、そこには肉体労働者の汗と筋肉を感じさせる大きな太い白ぬき文字で、堂々、「鶴亀食堂」とあったのだ。しかもそれがどアップで写ったのだ。
  その名称といい、荒々しい粗末ないでたちといい、まさに昭和三〇年代である一九六〇年代を刻み込むにふさわしい食堂のたたずまいが、その画面にあったのだ。
  額に汗して働くことが、まがりなりにも評価を得ていた時代の、もっとも肉体的な飲食店が、大衆食堂だったのである。そして、食堂のたたずまいには、その汗まみれの肉体のイメージがしっかりやきついていたのだ。それがそのまま『キューポラのある街』に記録された。
  そして刻み込まれたのは、食堂のたたずまいだけではない。「食堂の事情」もちゃんと盛られてあった。
  吉永小百合演ずる主人公には弟がいて、その親友が鶴亀食堂の子であり朝鮮人の子なのである。つまり鶴亀は朝鮮人一家なのである。.ある日、弟は両親とケンカしたかどうかして家を飛び出し、その親友のところへ行く。そして食堂の母に丼物かなにかをご馳走してもらってなぐさめられるのだった。が、その逆はありえたのだろうか。
  朝鮮人家族が営む食堂はめずらしくなかった。朝鮮人家族であるだけで、フツーに仕事につけない社会環境があったからである。それから、戦争で父親を失った家族のばあいも、未亡人、片親というだけで、就職がむずかしく、母が、あるいは母子で、食堂をややりながら自立するということもあった。いまもってこのことの深層は何もかわっていないと思う。みてくれだけうまくいっているだけだ。戦後五〇年たっても、まだ戦争の事実と向かいあおうとしないのがおれたち日本人なのだ。これはいまの大都会のオシャレが、大いなる偏見と莫大な犠牲のうえになりたっているという事実をみようとしないのと同根ではないか。
  『キューポラのある街』は、食堂のたたずまいと一緒に、そういう「食堂の事情」を想起させる。アンネのことも頭をかすめるのだが、親戚や隣近所や同級生にいくらでもあった「食堂の事情」の背後の「戦争の事情」だって、ちゃんと思い出す。
  そのように昭和三〇年代である一九六〇年代の食堂には戦前も戦中も戦後も残っているのだ。そこにジャンクな食堂ならではの深みがある。
  いまの東京の若いイナカモンはどうだ。トウチャンの若いころの生活も知らない、その前の世代の生活になればもっと知らない。知らないことを自慢することで自分は新しい人間だとでも思っているのか、ちっとも恥ずかしがらない。そういうやつに深みのある個性が育つか、人間らしい自己主張ができるか。勝手なイナカモンのリクツをふりまわして自己主張と錯覚しているだけでないか。そんなやつが創造的であるはずもない。カガヤイテイルなんてちゃんちゃらおかしい。にもかかわらず、そういうワカモンを個性的だの創造的だの輝いているだのと持ち上げるやつがいる。持ち上げているやつをみると、それはなんとオジサンたちなのだ。どうなってるの。オジサンも過去を棄てて、昨日今日明日の三日世間にだけ生きる薄っぺらい存在になったのね。
  ようするに食堂は何も棄てない。古い、汚い、暗い、新しいのがある、時代は変わった、世界は変わった、みんな明るいのが好きだ、暗い過去は忘れよう……、そんなくらいでは棄てないのだ。そんなことは棄てる理由にならない。朽ちるまで棄てない。朽ちるまで棄てられない。田舎者は田舎をでるときの自立心と野性を、都会のキレイゴトとひきかえできないのだ。
  生存とはそういうものではないか、といいたげな、あのころのスモッグにまみれた薄汚い木造家屋に紺暖簾の食堂のたたずまいには、なんか凄味すらあった。そのときすでに食堂はジャンク者だったのである。
  そして『キューポラのある街』が「鶴亀食堂」の名において刻み込んだものは、ジャンク者の食堂だったことにおもいあたる。


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