『大衆食堂の研究』復刻HTML版          エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


思えば…編*田舎者の道

*三、食堂でなければありえない*

  一九六〇年の二月、東京都の電話番号の局番は三桁になった。その年の都区内の職業別電話番号簿の「食堂」の項を見る。各頁の下段には、小さな広告がならんでいる。ほとんどが、大規模有名店である。田舎者になじみの深いところでは〔聚楽〕〔渋谷食堂〕〔食堂三平〕といったところが広告を出している。
  これらの店は、デパートの「お好み食堂」のように、和洋中華なんでもありのスタイルの「大衆版」だった。安い価格帯のカレーライス、ハヤシライス、チキンライス、ラーメン、丼物などは必ずあったが、だいたい店の大きさによってメニューの数がちがった。大きい店ほど種類が多い。単純明快である。
  デパートのお好み食堂は、続々と開業した。しかし、高島屋の「大食堂」はレトロの風格で残っているものの、ほとんど姿を消した。
  かわって、あいかわらずの欧米劣等感と本物伝統劣等感をひきずった、安直でつまらない「専門レストラン街」というのが、デパートやショッピングセンターや駅ビルなどに出現した。
  が、あの猥雑でおおらかなお好み食堂にくらべると、いじましい雰囲気である。コンプレックスを出発点にするとどこか偏狭になる。照明は明るいが気質は暗い。ああいうとこでめしくっていると、自分がどんどんおおらかさを失ってゆくようで気分が滅入る。
  昔のデパートのなんでもありのお好み食堂にしたって、大衆的ではあった。けっこう猥雑でおおらかではあった。しかし、都会生活に馴れてない田舎者貧乏青年にとってはまばゆい存在だった。都会の有閑マダムや成金ファミリー御用達という感じであった。なんとなく敷居が高い、お値段のほうもチト高そうだ。そこへいくと三平などは本当に安いといえるかどうかはわからないがヤスい気分で利用できる、というわけである。
  渋谷の「渋食」と新宿の「三平」は、学生仲間でも有名で、田舎者御用達の大衆食堂の双壁だった。これに「聚楽」をくわえて田舎者御用達大食堂御三家。
  あのころの有名の法則は、一に値段が安いかヤスい気分、二に量がある、三がなくて四がうまい、である。キレイだのオシャレなんて評価言語はなかった。
  聚楽は、これは、食文化史からはずせないであろう須田町食堂として知っている旧い人もいる。が、おれたち田舎者にとっては老舗かどうかなんて関係ない。どちらかというと、おのぼりさん用という位置づけだった。
  安くない。田舎からトウチャンカアチャンジイチャンバアチャンが上京してきたときなどは、ここにスッか、などと上野の聚楽や新宿駅東口の聚楽を利用するのであった。
  そういう意味では、聚楽などは田舎者の大集会所みたいなもので、その状況は、数年前に上野の聚楽にはいったときも同じだったのでおどろいた。御三家の中で、昭和三〇年代にして一九六〇年代の面影をとどめて残っているのは、上野の聚楽だけになってしまったのだ。
  やっぱりあの、建物は古ぼけているし、レトロというには品はないし、でかいだけの大食堂で、相手がこれから新幹線に乗るというところがちょっと風情に欠けて気にいらないのだが、田舎に帰る列車に乗る前の親戚や友を囲んで一杯やるというのは、なかなかいいものなのだ。周りにも同じようなグループがいて、田舎者は旅の通人であり、なおかつ健在であるな、と思ったりして。ともかく、生きる味わいがあっていい。ちまちました都会の日常をぶちやぶるような、希有なゆとりと壮大な交情を感じるのである。
  けっきょく、都会的な店はひとの気配をとどめないのだ。したがって月日を重ねるほど味が出るというわけにはいかない。パチンコ屋みたいにしょっちゅう新装イベントをやっていなくてはならない。それは都会的な店を経営するイナカモンも利用するイナカモンも、ひとの気配をとどめていないからだろう。イナカモンは、田舎者性を否定したことで、人間的には空っぽである。そこへいくと田舎者は、まだ、ひとの気配をしっかりとどめている。田舎臭さとは、そのことであるよ。
  上京してしばらくは、一に学食、二につるかめ、三に食堂ならどこでもよくて、四に中華屋、五六七八九はてきとうで十に三平、というぐらいがおれのやりかただった。
  いちばんカネのない日々は学食のカレーライス、それをくいはずしたときは、新宿西口のいまでは名称だけは「思い出横丁」に変身した「ションベン横丁」のつるかめ食堂の天丼。
  「天丼」といっても、何が入っているか正体不明のかきあげ風の、厚いうどん粉の煎餅みたいな揚げ物を丼めしの上にのせ、タレをかけたやつだ。腹にズシンときてしばらく何もくうきがしなくなる。メチルをやったことはないがメチルの気分だ。冷えきったビッグマックをくった気分だ。下痢をするというやつもいた。これはキクぜ、という感じで、学食のカレーライスの次の安い値頃品だった。
  三平は連れがいてしかたのないときしか利用しなかった。店が大きいから数人ではいるには便利。ボリュームはあるが、不味い、高い、という評価をあたえていた。
  で、やっと電話帳の広告のはなしにもどれるのだが、三平のだけは、唯一スローガンらしいのがついていて、それがナント、「味覚の民主化」なのだ。まさかそのようなスローガンをかかげていたとは、しらなんだ。
  「味覚の民主化」とはナンダ。支配階級が独占している高級料理を、大衆的な粗悪さとボリュームとお値段でくわせてくれるというココロなのか。
  おれはハッキリ覚えている。はじめて三平でくったカツライスのカツの、感動的なボリューム、黒こげ一歩手前の見事な衣の色、油のにおいの迫力、いくら噛んでもへらない肉。いつしか古代の洞窟で肉の固まりにかぶりついているような野蛮な気分になっちゃう、野性と野性の格闘のようなカツライスに、三平のすごさを感じたものだが。あれが「味覚の民主化」だったのか。
  一九六〇年前後の、日米安全保障条約に反対する運動を中心にした、「民主主義」の高揚を知っているひとは「民主化」については理解できるだろう。だとしても「民主化」という政治用語を堂々とつかうあたりは、やっぱり、新宿の三平らしい。どこかいかがわしく、かつ気取りのない独自性が食堂らしいのだ。
  三平は新宿のあちこちに店をもっていたから、表通りにもあったのだが、なぜか「裏通り風」だった。ということは当時は、「労働者風」だった。ということは、「田舎風」だった。
  三平をどんどん小さくしていくと、どこの町にもあった、いまでもけっこう残っている、ショーウインドーに古ぼけたサンプルがならぶ安食堂になってしまう。
  田舎者は田舎臭さを拭い落とさずに出入りできたし、店内には、赤黒いホッペが少々の都会暮らしで白くなりかけた、田舎者のグループが必ずいた。
  進学したやつは学校で遊び友だちがすぐできるが、中高卒で就職したものは小さな商店や町工場や事務所だから、先輩だらけで同輩の友だちがなかなかできない。で、上京したてのたまの休日には、新宿あたりで田舎の同級生とまちあわせる。そしてヤスい気分で入るのが三平だった。そして「ここは田舎くせえなあ」などと、田舎者は安心の会話をかわすのだった。
  貧乏な田舎者大学生は、気高い理想主義となんらかの僻み根性もあって、反権力的で反権威的で現状否定的だった。ようするに、都会風のすましこんだ感じは気にいらない。上品は敵だ。抵抗の姿勢をバンカラに求めた。しかしハイカラが可能ならすぐそちらになびくという脆弱さも秘めて。垢抜けたオンナにヨワいのに、余計な知識がついたぶん、食堂に入るにも余計なリクツをつけた。
  中村屋なんか東京の小ブルが行くところだ、なんていうのが三平あたりでめしをくっていたのである。デモの後などはドッと混雑だった。
  渋谷のばあいは、西村フルーツパーラーなんか東京の小ブルが行くところだ、なんていうのが渋食あたりでめしをくっていたということになるのだろうか。三平とくらべると、渋食のほうがちょっとファミリーチックでヤワな印象があった。
  ともかく東京の田舎者は、田舎の仇を東京でとばかりに、「民主化」に望みをかけ燃え上がっていたのであります。
  三平は、その熱気に飲み込まれたのか、飲み込んだのか。どちらにしても、ふてぶてしい食堂の真骨頂を象徴する「味覚の民主化」なのである。そういう食堂のふてぶてしさこそ、「眼に見えない杵でもって搗き減らされる」(と島崎藤村はいった)まえの田舎者の自立心と野性の表出であり、他の飲食店にはない独自の熱源なのだ。
  だから、三平もそうだが、食堂には、美味さ不味さをこえたところの、食堂ならではの存在感と充実感があったのである。

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