『大衆食堂の研究』復刻HTML版          エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


思えば…編*田舎者の道

*二、田舎者は食堂へ向かう*

  昭和三〇年代にして一九六〇年代というのは、田舎者が怒濤のごとく都会に押し寄せて、食堂でめしくいながら、ナニゴトか蠢動していた。食堂も田舎者も元気すぎるくらいで、活力があって、こわいものしらずで、ようするに青春だった。
  一八、九のおれが、めしくっていると、はっきり土方の兄イが、テーブルをはさんで向かいにすわった。すると兄イはいきなり、泥長靴で、おれの合成皮革の靴をふんづけるのだった。おれは足を引く。泥長靴がおいかけてくる。オー、ヤバイヤバイ、と当時はおもっただろうか? おれは目線を下げたまま、懸命にめしくっているふりをする。焦れた泥長靴がスネのへんを蹴る。覚悟をきめて顔をあげる。と、兄イは、ニヤッと笑って、「たばこくれ」だ。ナンダそれならそうといってくれればいいものを。「どうぞ、どうぞ」。
  最初は知らないわけだが、ポンとつつかれるか蹴られるかしたら、そのことだとわかってくるくらい、たばこの貸し借り、といっても差し上げてしまうのだが、よくあった。顔を近づけて「にいちゃん、たばこ貸してくんないかね」とそっというのはおじさんで、兄イは行動で示すのだ。持ち合わせがないと、「ばかやろう」と、しこたま蹴られたり踏んづけられるたりする。そして、「どうだ学生、飲め」とついでくれるのも兄イたちだった。サラリーマン先輩の「飲め」「くえ」にも遭遇するのだが、かわりに説教のような青年の主張ようなものを聞かされることもすくなくなかった。それがけっこう語気荒くて、適当に聞き流すことができない。
  ミンナ野性だったなー。和気あいあいといっても、いまのテキトウな関係にくらべると、ずっと荒々しい。でもミンナ妙にひとなつっこくて、「粗暴なコミュニケーション」も人間味があって悪いもんではなかった。
  そもそも田舎者が田舎を出るときの決意は、なみなみならぬものがあった。夕ーボがかかっていた。
  中学から高校への進学率が五割あったかどうかってころだ。高校以上の進学はさらに半分以下。大学を出たからってなんになる。貧乏人はさっさと就職したほうがいい。そして土着の田舎者はみんな貧乏だった。転勤で都会地から出入りするサラリーマン家族はミンナ金持ちに見えた。だって、トースターで食パン焼いて、バターぬってくっているぜ。ちきしょういいニオイだ。
  中三の担任は「勉強する気がないなら進学するな」と厳しくいった。正しい指導だった。かといって田舎町には自然はあっても生活の途がない、と、ミンナが思い込んでいた。だから中三の担任はこうもいった。「よく考えろ、就職するのもひとつの進路だ。恥ずかしいことではない。就職したいならおれが就職先をみつけてきてやる」
  中卒者の「集団就職」は年中行事だった。「台東区○○商店会」行き、などと。夜汽車に乗って東京や大阪へむかった。中卒者は「金のたまご」といわれた。
  「夜汽車」と呼んだ夜行列車は「出稼ぎ列車」だった。大学入学で上京するやつらは昼間の急行列車に乗ったが、「田舎落ち」は、あのピーという悲鳴のような汽笛が、静寂を物悲しげに破る夜の列車こそふさわしかった。
  うろおぼえだが、こんな唄があった。

    黒い夜汽車がやってきた
    ……
    これで半年あえないぞ
    まめでたっしゃでくらしてくんろ
    おれはかけこむデッキのなかに
    妻と子供はしょんぼり残る
    ……

  出稼ぎはトウチャンだけですまなかった。百姓を継ぐために定時制高校にかよいながら田舎に残ったはずの青年も、都会に収入を求めた。かくてジイチャンバアチャンカアチャンの「三チャン農業」が流行語にまでなった。ついにはカアチャンもトウチャンと一緒に東京の飯場に住み込んだ。気持ちが悪いほどの冷静さで田舎の没落がすすんだ。農林漁業の田舎が衰退し工業の都会が栄えるのは進歩の歴史であるがごとくいいふらしているエライ先生方がいたし、ミンナそれを信じていたからにちがいない。
  とりあえず青年団は活動不随におちいり、祭りができなくなるほどだった。そんなふうに祭りが衰退するなんて、誰が予想できただろう。

    は〜盆だてがんにナスの皮の雑炊だ〜

  と、盆踊り。ナスの皮の雑炊をくうこともなくなったが、ひともいなくなって、イマイチ盛りあがりに欠けた。
  自立の道はけわしかった。中卒から計算したら、商店かなんかに住み込みではじめて、仕事を覚えて……、と、考えてみるだけでも憂欝になる長いトンネル。だから勉強する気もないのに、とりあえずアイマイに、進学という贅沢をできるやつはする。それでも未来がみえてくるわけではない。教師にデモなろう教師にシカなれないなんて、デモシカに進路をさだめたものもいた。イヤというほど見続けたデモシカ教師をこえる教師になろうと真摯なものもいた。なんとか生活の保障をみつけるためにと「狭き門」の突破を試みるものもいた。しかし、大学の先は荒野だった。それでも「三当四落」などとハッパをかけられた。「貧乏人は麦をくえ」といったことがある首相の唱える「所得倍増計画」があるでないか。田舎は暗いが都会は明るい。消費電力がちがう。なぜなら蛍光灯をたくさんつける会社があるからだ。大学を出て、どこかの会社にへばりつけ。そうすれば所得は増え続けるらしい。「木綿のハンカチーフ」の時代以後とは比較にならない切迫感が、都会に向かうハイティーンの胸にあった。緊張と気負いだけは相当なものだった。
  中卒の就職、高卒の就職、大学進学、出稼ぎ、家出、それぞれがそれぞれの事情を胸に、田舎を出立した。またもどってくらすことができるのだろうか? もどってきたいのだろうか? どこへいきたいのか? 不安と、不安をこえる期待、野心、勢い、あるいは諦め。故郷にツバしたやつもいれば、故郷離れがたく得体の知れない憤怒を飲んだものもいた。
  リストラの近頃もいわれる「去るも地獄、残るも地獄」は、そのころの首切り合理化反対闘争の炭鉱で使われた言葉だが、炭鉱労働者だけのことではなかった。
  後も先もない環境のなかで、何か叩きつけるように激しいものをもって、青い春は大都会にのぞんだ。
  こういう種類の人間がもっとも多くたどりつくところが食堂ってわけだった。なぜかというと、食堂は、田舎者の自立心と野性を拭い落とさずに出入りできるところだったのだ。そして、この田舎者の心情をおもいおこすことなくして、食堂のいかがわしさの熱源を理解することはできない。

  当時は、田舎者は田舎者らしい自立の気概と野性を、ハッキリ持っていた。これこそ田舎者の熱源である。そのギランギランとした気流が、食堂で渦を巻いた。それはもう、マグマの熱風、サウナの蒸気、ションベンの湯気のような熱量だった。
  学生、労働者、職人、アソビニン……地下足袋をはいた、赤旗をもった、ギターを抱えた……少々姿をかえた田舎者が、食堂では野性のままにふるまった。気取り、虚飾、いっさい無用。クセークセーいろいろな地方のさまざまな種類の人間が、体をぶっつけあって、怒鳴り声をあげ、あけすけにめしをくう。ときには、ずいぶん静かでしめやかな食堂もあった。場所と時間帯によってちがうのだ。しかし、だいたい住宅難の時代でもあり、ゆとりのない空間でひしめきあってくうのがふつうだった。体がぶつかってあたりまえ。
  そういうところで体をこすりあわせるようにして、おれなんかは故郷のおかずであるゼンマイ煮などでめしくっていると、しみじみ、世間に生きてるってことを実感できたし、なんかムラムラムラとやる気が起きるのだった。
  この熱量の濃密なめしには代替がきかなかった。


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