『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道

*三、貧乏大衆のための東京食堂事情*

  ●なんとナントの公営の食堂●
  こうなるはずではなかったが、ついでだから、大正時代の食堂のことである。この時代に大衆食堂の原型が生まれたといえる。
  大正七年(一九一八年)といえば、東京のぜいたくなサラリーマン野郎が「今日もコロッケ、明日もコロッケ」などといいだすほど、洋食はひろまっていた。だけど、米騒動もあった年である。世間は激動、といっても歴史はいつも激動していてつまらないが、都市には、貧乏人があふれるわ、一方で成金が生まれるわ、で、なんか激動していた。バカ儲けするやつがいると、必ず、片方には貧困が生まれているということで、いつの時代でもこれが激動の根にある。バカ儲けするんじゃない!
  で、この年、東京神田に「簡易食堂」が出現した。それが、当時の東京市立のものだったらしいのだが……。
  昭和二四年一〇月に東京都民生局が発行した『外食券食堂事業の調査』というガリ版刷りの冊子には、「歴史的考察」という項があって、東京の「公益食堂」の歴史がわかる。つまり、こうある。
  「公益食堂の設立の動機は第一次世界大戦直後の変態的物価騰貴であり……」
  ところが、こうもある。
  「かくて公益食堂は米騒動を直接の動機として国家的背景のもとに全国都市に続々発生した。しかし東京府、東京市直接の設立はこれに遅れ、大正九年四月に牛込区神楽坂に市の施設として、この種の食堂を開始したのが最初……」
  大正七年の「簡易食堂」についてはふれてない。東京は遅れた、とも言っている。そうだろう、なんとなく、わかる。たいがい関西がはやい。大正七年に、大阪に「簡易食堂」ができたという記録はある。おれは食堂研究者というわけではないし、こまかいことはどうでもいいタチだ。このへんのくいちがいについては、どうでもいい。このころに、公営の食堂ができた、というのが事件なのだ。
  神楽坂の食堂は「神楽坂食堂」と呼ばれるが、大正一二年三月には神田食堂ができて、九月一日に関東大震災となる。これでますます必要性が強まる。翌一三年九段食堂にはじまり、昭和七年(一九三二年)四月の深川食堂まで、一六ヵ所できた。座席数にして合計、一八七七名分。こんなこともどうでもいいか。どんなものをくわせていたのかが気になる。
 東京市社会局、大正一四年四月発行『東京市設社会事業一覧』には、当時の「東京市公衆食堂成績」がある。これには、一一ヵ所の食堂がのっているのだが、それが、『外食券食堂事業の調査』にのっている一六ヵ所以外の所もあるからややこしい。こまかいことはいい。当時の、「東京市公衆食堂」のメニューである。
  定食  朝一〇銭、昼一五銭、タ一五銭
  うどん 種物一五銭、普通一〇銭
  ミルク 牛乳一合七銭
  パン  ジャムバター付半斤八銭
  コーヒー 五銭
  貧乏な大衆を相手にした食堂とはいえ、定食だけではなく、パンにコーヒーまであるあたりが、いかにもハイカラを経過した、日本の食事の姿である。
  定食の中身はわからないのだが、大正七年の大阪の簡易食堂では、飯四銭、雑煮二銭、鯖三銭、膾五厘、香の物五厘の計一〇銭である。いわば、近代日本のめしの原型で、さきほどの吉田忠さん指摘の「中世における画期的な米常食拡大期につくり出された」米食型食生活の姿だし、いまでも、おれが食堂でくうものと同じようなものなのだ。
  公衆食堂は主に、生活困窮者のためのものである。住宅もなく、いわゆる簡易宿泊所に寝泊まりしているひとたちへの「救済事業」が、目的である。「簡易食堂」という呼び方は、当時のいわばホームレスや自由労働者などを宿泊させた「簡易宿泊所」との関連であろう。食堂と貧乏な大衆は、大正時代に濃い関係になった。
  東京が富を吸い上げれば田舎に貧乏が残る。それなら東京へ行こうと、東京に人々は集まり、大正末から昭和の初めには、貧乏な都市生活者が膨張する。この時期、「大衆」という言葉が流行語になるほど、大衆現象があった。食堂も、その大衆現象だし、ここで、大衆とめしと食堂、それに洋風の風潮が、完全に交わった。
  となれば、「大衆食堂」という名の出現も、この昭和の初期あたりから可能性はあったとみていい。そして、そのころ、貧乏な大衆が利用する安い飲食店で、定食を食わせるが、ちょっぴりハイカラな嗜好的飲食もできる、という大衆食堂のスタイルとイメージができあがったのではないか。
  もしかすると「食堂」という言い方は、「官」がめしくわせるところという色彩が強かったのかもしれない。というのも、昭和三年八月の『東京市ノ状況』第九一号にのっている、東京市役所統計課の調査結果「東京市内二於ケル飲食店」には、「食堂」という言葉が出てこない。
  「中産以下ノ知識階級ヤ労働大衆ヲ持ツ都会」東京は「粋ナ純日本式ノ建物ニ大江戸ノ名残ヲ偲バセテ江戸前ノ庖刀ヲ誇ル日本料理店ヨリ所謂カフェーノ名ヲ以テ呼バレテ居ル西洋料理店ヘノ推移ニハ現代人ノ有スル生活意識ト歓楽ヘノ欲求ガカナリ濃厚二彩ラレテ居ルヨウニ思フ」という、うつりゆく世相に哀調切々、昔の役人て「文学的」だったんだなーと胸打つ解説があって、時の経過を超えて、この著者がすぐそばにいるような印象なのだが。
  ここに出てくる飲食店は、西洋料理店一七三三軒、西洋支那料理店五二一軒、和洋料理店四〇○軒、汁粉餅屋一六三二軒、蕎麦饂飩屋一五七三軒、「めしや」一四二七軒、おでんや一〇〇一軒、すしや九五九軒、喫茶店(ミルクホール含む)九三一軒、日本料理店六一六軒、以下、てんぷら屋、支那料理店、酒場(酒肴)、うなぎ、支那そば、鳥料理、牛・馬・豚・鳥、鱒料理、朝鮮料理、貝料理、豆腐料理、うさぎ、という順である。
  この「めしや」こそ民間の大衆食堂なのだが、「食堂」という言葉をつかってない。めしやは主に労働者を客とするもので、労働者の多い江東二区、本所区深川区に多い、などという解説がある。
  解説者は、「昔ながら」に愛着がある方のようで、汁粉屋には「昔ナガラノ紺暖簾二何々屋ト筆太二書イタノガ可成多イ」などといった描写もある。この暖簾の風情は、昭和三〇年代の大衆食堂の紺暖簾にも共通する。

  ●大衆食堂誕生、だがしかし●
  昭和一二年頃から東京市営の食堂は減少にむかう。民間の食堂がふえたからだ。昭和一二年一〇月の東京市役所発行『東京市の社会事業』にはこうある。
  「小額所得者階級に低廉且栄養に富む食物を供給するを目的とする施設に市営食堂がある。現在五ヶ所で、定食(八銭、十銭、十五銭の三種)、嗜好食等を供給してゐる。而して現在は過去に比して低廉なる民間食堂が多く市営食堂の目的の一端は既に達せられたる為、最近ではその一部を廃して要保護者の栄養指導、共同炊事、要給食児童の給食等の事業に転化せんとしてゐる」
  ようするに、「低廉なる民間食堂が多く」なったのだ。ここに、大衆食堂のひろがりがよみとれる。この時期、戦前の大衆食堂は、大衆のなかで、いきいき発展していたのだと思う。
  昭和一三年(一九三八年)五月、東京府料理飲食業組合大衆食堂部ができる。ついに、やっと「大衆食堂」の時代だ。
 ところが自由な大衆食堂の時代は長く続かなかった。世間の雲行きはかなり怪しいものになっていた。この年、国家総動員法発令。この前年、日中戦争が始まって、大本営が設置されていた。そして十五年、「ぜいたくは敵だ」ということなのか、食堂の米飯使用禁止。なんたるサンタルチア。
  真珠湾攻撃の年の昭和一六年四月一日、ついに六大都市で米は配給通帳制になり、外食は外食券をもたないとダメという外食券制が実施。五月、大衆食堂部は、外食券食堂部となる。以後、食堂は官の統制の時代にはいる。いつだって裏の手ヤミの手はあるのだが、原則的に、食堂は自由営業はできないし、外食者も、外食券がないと食堂ではめしがくえない時代が、敗戦後までつづく。正式には一般外食券食堂と呼ばれた。
  昭和二〇年四月、外食券食堂部は都営食堂と統合して、財団法人東京都食堂協会を設立。同八月、敗戦。国は破れても人民は食わなくてはならぬ。二六年の東京都指定食堂組合ができるまで「非常時体制下」の外食券食堂営業はつづいた。
  あの常磐食堂も外食券食堂として営業をし戦後をむかえる。ただし、戦災で店は焼けた。その地に、戦後すぐに開業。もちろん、外食券食堂である。常磐食堂の現在の男主人は、昭和一四年生まれの、男四人女四人の四男であるが、子供のときから家族と一緒に食堂を手伝い、客がおいていった外食券を、ノートかなにかに貼った記憶があるという。それは、米屋へ持っていって米の配給を受けるためのものだった。

  ●統制あればヤミがある外食券食堂時代●
  外食券は、「米の通帳に証明書を添えて配給所に申請」すると、一日一人三枚、つまり三食分を限度としてもらえた。米の配給制は、ひとり一日の米消費量を割当て、統制するものであるから、それ以上はくわせてもらえないのである。それは原則のはなし。
  戦後の外食券食堂のようすは、とても、なんか人間くさくて、おもしろい。外食券食堂五三一軒の調査結果をまとめた、昭和二四年一〇月の『外食券食堂事業の調査』では、こんなようすである。
  食堂は、利用数が多いほどいいので、外食券さえ出せば、くわせてくれる。一人で一日に三食分だけというのは、いちばん少ないほうである。一人で、四食から六食分食うというのがふつうだった。この多い分はなんだ。もちろんヤミ券である。誰かの分をもらったり、「ヤミ外食券売りを渡世とするものから」買ったりするのである。
  ダフ屋の渡世は、いつの世もつきない。だって、ヤミかどうかは適法かどうかのちがいで、売りたいひと買いたいひとはいるのだ。これこそ自由主義の渡世。ヤミ券、一枚一〇円の相場。昭和二四年頃のことで、A定食一三円、B定食二三円、C定食二五円、D定食二八円、E定食三〇円の時代だ。
  そりゃ、カネさえあればヤミでもなんでも、何食分も食いたくなるだろう。食事の内容はこんなぐあいだった。
  主食は米飯のみの場合七六匁以上、汁実入九匁、小付一〇匁.。一匁は、三.七五グラムだから、気になるひとは換算してみてほしい。おれなどは、昔、「豚コマ五〇匁」などと買物にいかされたからわかる。A定食はおかずぬきの五〇ニカロリー、B定食以上は順次増加し、五二九カロリーから六三五カロリーで調整された。おかずの種類は、一日、いちばん種類が多い食堂で、約一五種類、少ないところでは、いまのおれだって腹がたつ、三種類で、選択の余地がない。
  しかし、モノはないのだからしかたない。この外食券食堂のおもしろさは、けっこう精神的環境を重視していたし、いわゆる内食者との均衡を重視していたところにある。「戦後民主主義」というやつなのだろうか、内食者と同じように、食事の経済性と精神性を提供しなくてはならんとこだわるのである。
  「外食券食堂は国家の食糧配給制度によって行われるものであるからには、外食券食堂に支払われる利用者の食費が、一般都民の食費と比較して不当の多額を要するならば、それは内食の食生活と外食の食生活の不均衡を示すものであって、施策上妥当ではない。(略)外食者の負担を軽減出来るよう、低廉でしかも熱量の高い供食をすることが望ましい」
  「外食券食堂は外食者が団欒的雰囲気に浸り、温く楽しい食事が出来る場所でなければならない。このためには食堂の調度装飾にこの条件を充し得るような配慮が必要であり、又従業員には利用者に対し親身の融合的態度がなければならない」
  オシャレだのアメニティだのと、歯の浮くようなセリフをならべるだけの最近の外食店は、この「親身の融合的態度」って言葉を覚えておいて、接客マニュアルに使用してほしいものだ。
  「食堂側が良心的たらんとするならば、食生活に内食者が味わう家庭の感覚に欠けた外食者のために、その食堂を家庭の延長となすような努力を払うべきだという結論に到達するであろう」
  「清澄なるラジオの音声と、四季とりどりの豊富な草花と、客層に合う絵画等に配慮が大いに不足である」
  ま、こんな調子である。これを見ると、こういう内容が、昭和三〇年代のたたずまいの大衆食堂に息づいていることがわかる。


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