『大衆食堂の研究』復刻HTML版 エンテツ資料棚>『大衆食堂の研究』もくじ |
激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道 *二、カフェー、そして食堂はどう生まれたか* ●食堂と白めし● 「大衆食堂」は、いつはじまったか。そんなことはわからない。と言ってしまってはつまらん。 とりあえず、いまの「食堂」はどういうところで、他の飲食店と区別されるのかというと、「白めし」をくわせるのが主な業だと考えるとわかりやすい。 標準産業分類には、「一般食堂」という業種名があって、「主として、主食をその場所で飲食させる店(日本料理店、西洋料理店、中華料理店、その他の東洋料理店を除く)」とある。その例示には、「食堂、大衆食堂、お好み食堂」とある。 じつは飲食業ほど分類がばかばかしいものはない。実態は、伝統のワザだ職人芸だのといっていても、売れそうでやれそうなことはなんでもやって生きてゆく世界だからだ。はやいはなし、あのなんでもある蕎麦やをみてもらえば、わかる。食堂、大衆食堂、お好み食堂のあいだにだって、厳密な線などひけない。しかし、ともかく「食堂」となると、「白めし」をはずすわけにいかない。標準産業分類は、これを「主食」といっている。これがあるために、他の飲食業は、なになに料理、ラーメン屋とか、「料理や食べ物」であらわされるのに、食堂だけが「食堂」という施設なのである。 そう考えると、大衆と白めしと飲食店が重なるあたりに、食堂のはじまりを求めることができる。となると明治の中期以後ということになるらしい。 吉田忠さんは『牛肉と日本人』(農村漁村文化協会)でこう述べている。この本も「タメになる食堂図書」に推薦しておきたい。 「明治中期以降、この国の近代化社会が生み出した貧窮層・兵士・女工らは、その多くの部分を輸入外米に依存しながら徐々に米食を増加させていた」 「明治、とくに中期以降、大都市の「腰弁階級」を中心に広まった米食(麦飯食)の増加は、中世における画期的な米常食拡大期につくり出された漬物や味噌汁、および塩干物を主とする沿岸大衆魚などの副食類の増加と結びついていた。これが、米食型食生活とよばれるものであるが」 として、柳田國男の『明治大正史 世相篇』(この本も「タメになる食堂図書」に推薦しておきたい。講談社学術文庫)から次の部分を引用している。 「温かい飯と味噌汁と浅漬と茶との生活は、実は現在の最小家族制が、やっと拵え上げた新様式であった。」 「腰弁」という言い方は、おれがガキのころの昭和二十年代でも、大人たちが使っていた。したっぱの役人などをさして「腰弁」といっていた。風呂敷につつんだ弁当を腰にくくりつけて通勤するスタイルから生まれた、ようするに知的エリートだが貧乏労働者だった役人に代表されるサラリーマンのことだ。 ともかく、明治の中期以降に、大衆と米の飯がむすびつく。そこには、日清日露の戦争やいろいろないきさつがあるのだが、詳しくふれているわけにはいかない。 どうやら、鉄砲と産業で国をつくるという近代化策の中心にいた軍隊の兵隊と工場の労働者から、「米麦からなる主食の重視(つまり副食の軽視)」がひろがったらしい。彼らは、米をつくるが米をくえない農民の子供たちだった。 そして、軍隊の残飯を売る、「れっきとした屋号をもつ店舗」の残飯屋が東京にできていた。 大衆の米のめしは、「近代化のめし」だった。しかも外国米の助けをかりてそれがなりたったのである。ま、米の安定的な自給と、白めしの常食の定着は、昭和三〇年代以後の、新しいことなのだ。 ●カフェーそして常磐食堂の誕生● いっぽう「食堂」という名称は、洋風の風俗として、「文化は上から下へ流れる」という法則で、広まったとみていい。食堂が食堂であるのは、テーブルにイスでめしをくうスタイルを採用しているからである。つまり、ダイニング・ルームね。こんなのは日本になかった。明治になったとはいえ、焼けることがなかった江戸時代の町並みと家は関東大震災まで残る。テーブルでイスのめしなど、洋風の突出現象だった。 明治三二年(一八九九年)、食堂車が山陽鉄道に初めて登場。明治三四年(一九〇一年)食堂車が東海道線もはしる。明治四〇年(一九〇七年)三越に食堂ができた。関係ないが、明治四一年(一九〇八年)味の素発売。 というあたりが「上」からの動きであるが、このころ、特権階級の文明開花ライフは、洋風化の波となって、大衆レベルにむかってひろがる。 その新しいファッションが、「ハイカラ」だった。明治三〇年頃、洋行帰りの連中のファッションから始まったといわれる、この「文明あこがれ」の言葉は、その後、大衆のあこがれをひきずる言葉として、戦後まで生きる。 「オシャレ」の先祖みたいな言葉だが、「オシャレ」は消費バカという感じであるのに、ハイカラはもっと意気軒昂という感じがあるのは、おれが「オシャレ」を蔑視するジジイになったからだろうか。 ともかく、ファッションが先行し洋風化すると食べ物も洋風化する、ということで日本はやってきた。洋食の大衆化の時代がはじまって、「大正デモクラシー」といわれる時代になっていた。 「ハイカラ」と「大正デモクラシー」。いいね、パワーを感じる。「オシャレ」と「平成バブル」とくれば、やっぱりバカとしかいいようがない。 大衆食堂へむかっての動きは激しくなる。昔ながらの一膳めし屋、大衆化する西洋料理店、そしてカフェー。入り乱れ、それぞれがそれぞれの安泰をめざす。いろいろな流れが集まっては分かれ、飲食店は時流のなかで生きる。その変化するさまが、飲食店そのものの姿なのであって、「○○とはこうである、こうでなくてはならない」というリクツなどいらないのが、この世界だ。ようするに、めしをくっていける、このことがカンジンなのだ。 明治四四年(一九一一年)の三月に、いまの銀座八丁目に「カフェ・プランタン」が生まれた。これは、キャバレーのルーツともみなされ、そちらのほうは、キャバレー王・福富太郎さんの『昭和キャバレー秘史』(河出書房新社。「タメになる食堂図書」に推薦しておきたい)などに詳しい。 福富さんはこう書いている。 「明治の末期ごろから、日本の社会の欧化風潮はますます盛んになり、食事ができ、ビール、洋酒、コーヒーを飲ませる店を、当時、新しがり屋が「カフェー」あるいは「キャフェー」と呼んだ。また洋風料理を看板にする「西洋御料理店」が続出し、この洋食堂や喫茶店が時流に乗ってカフェーに転化したとみることもできる」 このカフェーは女給さんをたくさん置いて、「女給サービス」を始めたことに特徴があった。家庭では主婦が給仕をした、飲食店で給仕といえば男が相場だった、それを女がやるから女給。いまでは、「女給」というと差別的だとかで、「ウエイトレス」である。カタカナ語になると、日本人は救われる。ところが女がいれば男がいななく。男たちがワクワク期待する方向にだんだん向かい、福富太郎さんの世界になるのだが、それはまだまだしばらくたってからだ。もちろん個人的交際のほうはわからん。ようするに大正時代、カフェーは、女給さんがいる、ハイカラな大衆的な飲食店だった。 ここで、あの笹塚の常磐食堂の先代にして初代、いまはなき内山富太郎さんに登場してもらわなくてはならない。 富太郎さんは、ライオン歯磨が発売になった明治二九年(一八九六年)に、三重県の現在は鈴鹿市になっている、神戸(かんべ)常磐町に生まれた。これで、常磐食堂の由来も、御長男がやっていた鈴鹿食堂の由来もわかるというものだ。 富太郎さんは、一七、八のときに単身上京する。そして、いまの京王帝都電鉄で電車の運転手かなんかをやっている最中に、「くいもの屋をやろう、これならくいっぱぐれがない」と決心する。 いまだって、会社なんぞは、生活のめんどうを最後までみてくれるかどうかなんてわからん。当時はなおのこと、ケガでもしたらお払い箱だった。それなら、一生くいっぱぐれのない仕事を、と考えたわけだ。 そして大正七年(一九一八年)に、いまの常磐食堂があるところに、開業した。計算してみると、二二歳のときではないか。 ところで、その店は、「カフェー」だったのである。つまり当時流行だったカフェーに手を出したとみてよいし、それは、ハイカラ風の洋食堂だったと推察できる。ところが、当時の笹塚といえば、ド田舎である。ハイカラ好み相手の商売はまずいとみて、そんなにたたないうちに食堂に方向転換をしたらしい。 そのころには、「白めし」と暖簾に染め抜いたり、看板に書いたりの、白めしを売りにした「食堂」を名乗る店が、東京の町中には、けっこうできていたのである。 >次のページ >もくじへもどる |