『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


激動編*大衆の道、めしの道、食堂の道

*一、流行現象だった大衆食堂*

  ●時の流行作家松本清張の大衆食堂●
  はなしは昭和三〇年代前半までさかのぼる。食堂が、解き放たれた鳥のように、舞い上がる時代である。大衆も舞い上がっていた。
  戦後一〇年をすぎていた。米はくえるようになったし、貧乏だが元気だったよ、でも「ヤミの時代」が終わってつまらなくなったなどといわれるようになっていた。そのころの松本清張の傑作、『黒い画集』の『紐』には、「大衆食堂」がまるで主人公のようにあらわれる。食堂を深め人生を深めるにはタメになる作品だから、「タメになる食堂図書」に推薦したい。
  死体の首に巻きついていた「紐」が、加害者と被害者の関係を暗示し、「大衆食堂」は、犯罪の舞台である東京の日常と欲望の写し絵のごとく登場する。それが、「食堂」ではなく、「大衆食堂」でなくてはならないし、「大衆食堂」といえば、やっぱり昭和三〇年代でなくちゃならないという深いわけも、ちゃんとわかる。松本清張の作品は、ほんとうに「社会科」だ。
  殺害された男の妻静子は、被害者の妹の嫁ぎ先、青木良作の家に泊まっていた。そこを訪ねた渥美刑事は、静子に、事件があった日の新宿での所在を確認する。

  「大衆食堂にはいられたのですね?」
  「はい、デパートの裏でした」
  「四つ角の、天ぷら屋の隣ではなかったですか? 二階のある間口の広い店で」
  「そうです。きっとそのうちです」
  静子は目で考えるように言った。
  「それは、つばめ屋という店ですよ。看板を思いだしませんか?」
  「気がつきません。陳列にならんでいる見本をみて、はいったものですから」

  これだけで、おじさんたちは想像してしまうだろう。つばめ屋は、あの新宿三越裏あたりにあった「三平食堂」のことではないか、と。あの雑踏、あの大衆のにおい。あそこなら、お上りさんの静子が利用しても不自然ではない。
  静子は何気なく入ったふうにして、アリバイ工作をする。親子丼をとって、用意しておいたハエの死骸を入れ、店員に文句をいったのだ。そのことを店員が忘れるはずはない。アリバイは完壁、捜査本部は解散した。しかし、静子が受取人になって、被害者に多額の生命保険がかけられていた。保険会社の調査員戸田正太が動き出す。戸田は青木良作を、田端にある鉄道の職場に訪ねた。二人はいっしょに「電車の停留所」にむかう。「停留所」といえば、路面を走るちんちん電車の都電である。

  「おや」
  戸田正太はたちどまった。
  「ちょうどいいところに、こういう店がありますね」
  それは、大衆食堂だった。陳列棚には、洋食と和食の見本がならんでいる。(略)
  場末の食堂だから粗末である。壁には、料理の品目と定価の札が貼ってあった。ビニールのクロースをかけた卓にむかいあった。

  いまでも「場末の食堂」は「粗末」である。そこで二人は、良作の注文で、サバの味噌煮や納豆などではなく、ビフテキをとる。良作はさらにトンカツもたいらげる。そのときの良作の洋食好きに、戸田はひらめく。というより、それをたしかめるために食堂にさそったのだ。静子と良作は「できている」のではないか? 当時は、ハイカラな洋食好きが、そういう推理の根拠になりえた。
  大衆食堂は、デパートの裏、都電の停留所にむかうところ、国電や私鉄の駅前、そんなところにあった。人々は足をつかう生活をしていた。歩いていると食堂がある。東京は、まだ平屋や二階屋で水平にひろがって、空がたっぷりあったころだから、「二階のある間口の広い」といえば大きい。いまではそんな大きな大衆食堂はない。景気がよかったのだ。「陳列棚」のサンプルは食欲をそそり、今日よりはるかに魅惑的だった。「ビニールのクロース」は、でまわりだしたばかりだろう。便利で安い石油製品が植物製品を蹴散らしていた。ビニールは日焼けし、表面が細かい傷だらけになり、透明感をうしなった。場末の粗末な食堂にふさわしい。
  ビフテキやトンカツやコーヒーがハイカラな気分をそえる。が、「ハイカラ」は、当時の欲望をリードする言葉でもあった。良作と静子がはまっていたあこがれや見栄や優越感、言い方によっては派手な生活、その底にある欲望を示唆する。
  静子は新宿にむかうまえ、亭主を殺す直前に、愛人との新しい所帯を夢見て、渋谷のデパートで台所用品を買って発送してしまう。そのリストをみながら戸田が「電気釜とか、コーヒー沸し、テンピ、魔法瓶などは文化的な台所用品」であり静子は「かなりハイカラな女に思える」と分析する。
  そして最後は、おたがいが加害者であり被害者であるかもしれない、不気味な深淵で終わる。それは欲望がカネとモノに群れる東京ならではの不気味さで、大衆食堂は、いわば、そういう東京と大衆の鼓動そのものだったのである。

  ●新しい大衆は発射して散った●
  死体を運ぶのに、「リヤカー」だったか「オート三輪」だったかと推理する時代のことである。
  しかしすでに、欲望を、カネと消費で満足させようという、新しい時代にむかって、日本は動いていた。そこには、当時の大人たちが「ハイカラ」という言葉でイメージする、文化的生活」があるはずだった。そして、ハイカラをゼイタクとみる昔ながらの暮らしがあって、もみあっていた。
  被害者、その妻静子、義弟の良作は、大衆の見本、代表みたいなものだ。おれたちの分身である。ふだんは昔ながらの暮らしをしている(当時の大衆は昔ながらの暮らしだった)。しかし、手の届きそうなハイカラに手を出さずにはいられない。みんなあこがれはあるし見栄もあるし優越感にもひたりたい。だから、疑似ハイカラ用品や疑似ハイカラ料理で、ハイカラ気分を楽しんだり優越感にひたるのだ。今日のグルメ大衆、芸術文化大衆と同じである。
  被害者は田舎町の神官である。つまり、昔ながらの暮らしと田舎の野心の代表だ。田舎に埋もれるのがいやだ。自分はもっと才能があるはずだし、東京で勝負したい。借金をしまくり大金をもって上京した。そこには、復興した田舎、新しい農薬の力でカネを手にした農業を抱いた田舎、いっちょう都会でバクチをうってみるかという欲望のふくらんだ田舎がある。東京はこういう投資をくいものにして太る。その妻静子は、男に虐げられているくせに男のためにドジをふむ、いつの時代にもいる女である。いつも欲求不満で、愛人をつくり、新しい生活を夢見て、そしてはかなく散る。東京にはこういう女が便利だ、「都合のいい女」である。政治や経済に口をはさまないが、カネと消費のためにがんばってくれる。そして義弟の良作は、近代を生んだ栄えある鉄道労働者である。JR社員の先輩である。まさに当時の労働大衆の代表である。彼は、千住の小さな工場があるごみごみとした一角に住んでいるが、「ひとかどのコーヒー通ぶって」いるし、ハイカラな洋食好きである。文化的生活を求め、見栄と優越感のためならなんでもする「労働者」である。東京はこういう男をとことんおだて上げ、とことん利用する。
  東京の大衆の像がある。みんな本物ハイカラ階級ではない。本物ハイカラは、石原慎太郎や加山雄三たちのように、夏は湘南でヨット、冬は別荘でスキーなどとやっていたのだ。
  みんなふつうの大衆だから、大衆食堂あたりで、ハイカラを味わう。それくらいなら罪はないし、大衆食堂はいたずらに欲望を刺激するようなことはしない。ところが、それ以上に背伸びさせてしまう、わけのわからん東京がある。
  あなたの欲望をみたすには消費がいちばんですよ。カネさえあればみんな同じ人間よ。ホラ東京には金儲けのチャンスがいくらでもあります。ホラ東京にはこんなにハイカラなものがそろっています。さ、みんなで人並み以上の生活をめざしましょう。こんなふうに、欲望をカネと消費にむかって増幅させていく時代の始まりが昭和三〇年代で、東京はそういう装置の中心にすわる。
  ここで注意しておく必要があるのが、「ハイカラ」というイメージだ。そこに、新しい「人並み」の生活を夢みたとき、労働し消費しなくてはならない、現代的な大衆が生まれた。おれたちでありおれたちのいちばん近い先祖である。
  雨後の筍、渋谷のジャリのようにわく大衆をのみこんで、東京の大衆食堂は、この時代に急成長し、もっとも充実するのである。これはひとつのトレンド、流行現象だったのだ。松本清張が「食堂」と書かずに、「大衆食堂」と表現したのには、それなりの意味があった。
  大衆食堂は、昔ながらの暮らしの大衆が、新しい暮らしにむかう、発射台のようなものだったのかもしれない。

  ●そして東京暮らしが残った●
  昔ながらの暮らしというと、禁欲的な貧乏生活をイメージされる。そこだけが強調されるきらいがある。しかし、そこに本質があるわけではない。欲望を、人間交流をもとにした生業や、自然をふくめた地域の秩序のなかでみたそうというものだ。あまりカネがかからないがカネも儲からない。それなりのよさがある。が、当時はことに、戦前戦中の封建くさいファッショくさいところをひきずっていて、父兄や長老はやたら威張っている、めんどうで口うるさい近所づきあいがある、めしのくいかたひとつとっても説教くさい、どうもあまり開放的でないし自由な感じがしない。なによりも、この暮らしの責任ではないのだが、田舎くさく貧乏くさかった。どこをとっても、いい感じがしない。
  新しい暮らしは、欲望を消費でみたそうとする。そのためにはカネがいる。だけど、カネさえあれば好きなことができる。一生懸命やればカネは手に入りそうだ。それに、どこか自由で開放的だ。めしのくいかただってかなり自由のようだ。足が長くなりそうなめしのくいかただ。とにかく、洋風のファッションに、男と女が手を組めるというところがいい。どこもかしこもよさそうで欠陥が見えない。
  で、カネになる産業と消費の秩序にいのちをあずけ、カネにならない生業と地域の秩序を棄てることにした。そこには、なんの連続性もなかった。ただ大急ぎで、昔ながらの暮らしを棄てたのである。一路、「大衆消費社会」へむかったのだ。
  昭和三〇年。戦後統制下にあった食堂の米飯販売が自由になった。「オートメーション」が熱っぽく語られた。「オートメーション」はいまの「マルチメディア」のように、すばらしい未来を約束した。三一年、「もはや戦後ではない」を流行語にした経済白書「日本経済の成長と近代化」が発表される。日本住宅公団の初募集住宅から、ステンレス流し台付のDK、椅子に座って食べる「洋式」の普及が始まる。三二年、大衆社会論台頭。電気釜の販売台数百万台を突破しブームとなる。三三年、あのインスタントラーメン「チキンラーメン」が発売になったのだが、それ以上に、渡辺製菓の「わたなべのジュースの素」が発売になった年として記憶したい。あのジュースの素の味わいは、まさに昭和三〇年代の素朴さ、ひなたくささやほこりっぽさをとどめて、なおかつモダンを感じさせた。イかった。神戸にダイエー開店どんどん買え。テトロン量産化で化繊時代到来どんどん着ろ。企業の広告宣伝費が急増。一万円札登場。三四年、消費が伸び「消費革命時代」といわれる。水原弘「黒い花びら」第一回レコード大賞。三五年、金持ちの遊びだったスキーや登山が大衆化し、消費に加え「レジャー」がブームに。日米安保条約反対の大衆闘争は、大衆の欲望と消費にのみこまれた。

  昭和三〇年代といっても、前半と後半では、まるでちがう。一〇年で、リヤカーやオート三輪や路面電車から、高速道路と新幹線へ変化したのだ。
  その変化は、六四年の東京オリンピックをひかえた一九六〇年代にはいってから、急激だった。それまでは、モーレツではあっても、川の水嵩が増えていくような変化だったが、六〇年代の洪水は地形までかえた。
  おれが上京したころは、東京オリンピックの準備ということで、町並みの破壊がはじまっていた。圧倒的に多かった木造の平屋や二階建の町並み。田舎の町並みが密集しただけのようにみえた東京の町並みが、日に日に姿をかえていた。川はコンクリートでふたをされた。高速道路が頭上をはしった。建物も水平から垂直へとかわる。ボーッとして乗っていた京王線の新宿駅近辺が、いつのまにか地下化していた。鉄鋼とコンクリートをぶちまけるだけの都市建設が展開された。職住分離はすすむ。町名変更も推進された。この町名変更こそ、「ワタシの町」という昔ながらの地域の秩序に生きる暮らしに、官僚たちが決定的なダメをくだしたものだった。
  東京オリンピック前後を境に、東京は地域の東京から、産業の産業による産業のための全国市場の東京に変貌するのである。この土地をリードするのは住人から、産業になった。これが一九六〇年代である。
  昭和三〇年代の大衆は、電車をつかい自分の足で歩くことを基本に、昔ながらの生業と地域の秩序のなかで、欲望のもっていきどころを探していた。一九六〇年代の大衆は、産業と消費にむかって、あらんかぎりの欲望を全開した。高速道路へ新幹線へ、時間を競い、量産化を競った。その大衆の奔流のなかで、大衆食堂は成長する。
  そして、六〇年代の前半と後半では、大衆食堂の環境もかわったし、大衆の意識もかわった。だのに、なぜだろう、この環境と大衆の動きに、大衆食堂たるものがついていかなかったのである。
  一、大衆食堂はそれでもくっていけると思っていた。
  二、大衆食堂は生業と地域の秩序にどっぷりつかっていた。
  三、大衆食堂は欲がない。あるいは金儲けがヘタだった。
  このすべてがあてはまりそうだ。
  そして、あの時期、食堂が繁盛していた時代。欲をださなかったといったらウソになると思うし、一旗上げようということぐらいは、どこの食堂でも考えたと思う。しかし、やっぱり、オレはオレなりにやる、というところに落ち着いたのだろうと思う。
  多くの大衆食堂は、昭和三〇年代のままだった。地域の東京に生きる昔ながらの渡世だった。しかし、そのめしをくった大衆の大勢がむかったところは、新しい暮らしがあるハズの、産業と消費の全国市場の東京だった。
  大衆は、大衆食堂を飛び立ったまま、帰らぬ人。いまでは、ずっと先の「オシャレ」な生簀に散ってしまった。おかげで、かどうか、大衆がいなくなった大衆食堂には、昔ながらの東京の暮らしが残ったというわけである。
  こういう歴史を象徴するような光景を、食堂でみかけることがある。それは、たとえば、木製の氷冷蔵庫と、ではじめのころのぼってりとしたスタイルの2ドア冷蔵庫、そして比較的新しい大型の冷凍冷蔵庫が、狭い床にひしめきあっていることだ。
  食堂は「近代化」をこばんでいたわけではない。食堂のめしをくって市場へ旅立った大衆のようには、そうは簡単に生業と地域を棄てきれなかったのではないか。マイペースで近代化とつきあったのである。


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