『大衆食堂の研究』復刻HTML版 エンテツ資料棚>『大衆食堂の研究』もくじ |
![]() 放浪編*ワザワザでもいきたい食堂は死生のにおい *三、食堂世間咄* ●どうでもいい第一話● 色白豊満な肉体をしっかり化粧して、ひかえめではあるが着飾った彼女はこういった。 「わたしはね、九年前に亭主と死に別れてね。ずっとここに来ているよ。ここは人情があるからいいよ。こんなところだけどさ。こんなに人情のいいところはないよ」 九年前といったか、六年前といったか、自信がない。おれは少々酔っていた。彼女は大ジョッキの酎ハイかなんか飲み、焼き魚や冷や奴を数品もとって、めしくって。 そばでは、といっても狭いんだからそばにきまっているが、めしをくいおわった若い男が食堂のオジサンを相手に碁を打っている。オジサンは立ったまま、調理場といったりきたりしながら、指す。 「どーせ勝つんだ。お客様に勝ってもうしわけないな。たまにはまけてやらないと、きてもらえなくなるな」 とか口三昧線をいれながら、碁はけっこうな腕前だ。かなりのヒマ人でもこれだけ強くなるには年月がいる。 「わたしの亭主もね、碁が好きで好きで。わたしには、さっぱりわからなかったけどね。そりゃ、好きだったね。なにがおもしろいんだろうね」 彼女は、この食堂で初めて顔をあわせたばかりなのに、何かと話しかけてくる。何かと亭主の思い出あれこれになる。テレビの野球の話になれば、 「わたしの亭主も野球をよくみていたけどさ、わたしには、さっぱりわからなくてね。あれっ、いまどうなっているの、どっちが勝っているの……」 というぐあいだ。 彼女は注文しすぎて、サンマ焼まるまる一匹ほか、食べ残しがでた。それを、明日の朝食にするからとビニール袋に入れてもらう。明日の朝、あれをひとりでくうのだろう。 ●どうでもいい第二話● 「なーおやじ、刑事ってのは、スリの手はすぐわかるそうだぜ、この二本の指がな、すべすべのつるつるだそうだ」 男は右手の人差し指と中指の二本を食堂のオジサンにつきだした。 「ああそうだろうな、職業は手にでるよ。おれが昔ギターをやっていたころは、指の腹がコチコチだったもんな。むかしはずいぶんギターをひいてたもんだ」 「そりゃわかる。おれはな昔、マンドリンをやっていたんだぜ」 「おれのこの手はどうかな、めし屋の手に見えるかな、これだけ白いから、学者の手にはみえねーだろうか」 「ばかいっちゃーいけねーよ。学者さんてのはよ、ほらここんとこにペンだこというのかエンピツのたこができてるんじゃねーのか」 「そうかー、やっぱり無理かね。めし屋の手はね、一日中水をいじっているから、こんなふうに白くふやけたみたいな手になってしまうんだ」 オジサンは、おれに手をひろげて裏表みせてくれた。たしかに、掌から指まで、ぽちゃぽちゃ白くふくらんでいた。これがめし屋の手か、意外な指の太さにおどろいた。 「だけどなんだねー」男は自分の手をじっとみていたが「おれの手は紙をいじる手だからこんなキズだらけだけど、やっぱり女がいちばんだよ」 おれとオジサンは突然はなしのむきがかわったので、その紙をいじる手から、男の顔に視線を移した。 彼はにんまり笑った。 「いやなにね、この指はね、やっぱり女の体におさめておくのがいちばんいいってこと」 「ちげえねえ」 とオジサン。 だいたいちょっと見識ありそうな話から昔の思い出になり、自分の人生をじっとみつめるような味のある話になったと思ったら、一転、女の話でめでたく終わり、というのがひとつのパターンなのである。 男は仕事の途中だった。あたりは中小の印刷屋がおおいから、そこら相手の紙屋らしい。ひとくさり話こんだあと、食堂の電話を借りて会社に電話すると「あーあ、あのババアもどってこいってよ、このまま家に帰ろうと思ったのに」 これだから貧乏なんだと、ポケベル携帯電話で武装した企業戦士はなじるだろう。ま、たしかにそうだ。それで、なじるだけで終わりかい? ●どうでもいい第三話● みるからに体格のいい男が入ってきた。みるからにガテンの「赤井くん」風だ。うすい紫色のジャージの上下を着て。汗だくだく。 「おう、おやじ、自転車できたんだけどさ、この汗みてくれや」 食堂のオジサンは何もいわずに外へ出て、歩道に置きっぱなしの自転車を店の横に片づけた。 いつもそんなぐあいに、どこにでも置いてしまうんだろう自転車を、オジサンはまず片づけるのだ。 男はジャージの上だけ脱いで、シャツになった。色くろぐろ。筋肉モリモリ。肌すべすべ。 「今日はよー、午後からずっと部屋の掃除をやっていたよ。二時間だよ、二時間かかったね。ベッドを入れてさ。今晩からベッドだよ」 オジサンはてきとうにうなずきながら、ホッピーをつくる。もう流れが決まっているのだ。 「冷や奴くれよ。あのさー、ちかごろ冷蔵庫のものがなくなるんだよな。牛乳とか水とか、そのまま口にできるのがさー、なくなっちまうんだ。誰かとってくんだよなー」 「そりゃ、物騒じゃないか。部屋に鍵つけてないの」 「冷蔵庫は水場のそばだから部屋の外だよ」 「じゃ、なにか、誰かとなりの部屋のやつとかかい」 「ちがうよ、あそこにはおれだけだ。あと三部屋は空だよ。きっとまえのやつが知っていてとりにくるんじゃないかねー」 「そりゃ、部屋の中にいれちまったほうがいいんじゃないの」 「だけどな、それぐらいのことでばたばたやるのもなんだしな、まあ、おかしなやつがいるってことよ」 「それで、今日は仕事にいってきたのかい、そんな掃除なんかしていて」 「ああ行ってきたよ。おれの仕事は楽じゃないんだ、その日その日のことはきちんとやっとかねーとな」 「えー、どうだかわかったもんじゃないね。一時間くらい顔だして、えらそうなこといってきただけなんだろ」 オジサンは図星だったし、男は正直だ。 「あ、あー、まあそんなところだ。だけど明日からは足場がはじまるからな。おれの仕事はおやじみてえに楽じゃないぜ。このあいだの暑いときなんか、三八度とか九度なんていっているとき、おれたち上の方じゃ暑くて暑くて、鉄骨なんか目玉焼きがつくれそうなほど熱くなっていて、肩に担ぐとアチッてなもんだ」 それから男は、おれの方を向いて、ビル風があるから上は風があって涼しいだろうと思われるがちがう、ビル風というのは下だけで、上は風がないんだ、暑くてたまらないんだ、と説明し強調した。そして、オジサンの方むいて、 「おやじなんて楽だもんな、一日ここにいて無駄話していればおわっちまうんだからよ」 「とんでもねー、たいへんだよ。お客さんのご機嫌とるってのはなかなかたいへんなんだよ。気をつかうしね」 「なにがたいへんなもんか。おれはもう長いから知っているぜ」男はおれにむかって「じつはおれが現場を見ただけでも、二〇回くらいは、お客に説教していたね」そしてオジサンにむかって「なーおやじあの客はもうこねーだろ。.なにが、お客さんのご機嫌とるってんだ、わらわせるぜ、いいたいこといってるだけじゃないか」 オジサンはちょっとテレておれの方を見る。 「いやあれはねちょっと、ものがわからねーやつがいるからサ教えてあげただけさ。そんなのあたりまえじゃないのさ、ねー。ものがわかってねーやつが多すぎるのさ」 「まーどうでもいいけどよ、今日の昼は客があんまりこなかっただろ」 「う、うん、ま、少しかな」 「そーらみろってんだ。おかずの残りぐあいをみれば、おれにだってわかるよ。しょうがねーなー」 おかずのケースには、野菜や魚の煮物、焼魚などの昼のおかずがたっぷりあまったままである。 「だけど、最近みんな倒れちまってなー」オジサンは指を折りながら名前をあげる。 「なんだみんな酒のみばっかりじゃないか。いい歳して、だいたい飲み過ぎなんだよ。おれだって翌日影響がでるような飲み方はしないよ。足場かつげなくなったらみんなの迷惑になるからな。それがあのジジイども飲み過ぎだよ」 「五人だよ、五人。常連さんの酒豪に五人も倒れられたら、ただでさえ少ない客なのにこまっちまうなー」 豆腐屋のおじさんが自転車で豆腐を売りにきた。八○歳はこえていそうなご老人だ。竹屋の冷や奴は大きくておいしいのだが、こんなご老人がやっているんだとまじまじとみる。彼はゆるゆると歩いて、男の前に腰をおろした。オジサンはポットの冷たい水を出す。「豆腐屋さんも酒のめなくなっちまったからね」 豆腐屋「ああ。もうくたばるのを待つだけさ」 男「だいたい加減てのをしらんね。いまの年寄りどもは。だからそういうことになっちまうんだよ。えっ、なに、たばこ吸うの。たばこはやめたほうがいいんじゃないの」 豆腐屋さんはたばこを取り出して火をつけた。 「これで、たばことりあげられたらどうするんだ。女だめ、酒だめ、もうくたばるだけだからさ。たばこくらい好きなようにやらせてもらわなきゃ」 「だいたいこのひとたちは好きにやりすぎだよ、それで飲めなくなったんだからしかたないけど。おれなんかさ、仕事に影響でるようなことしないもんね。たばこだってね、三箱吸っていたの減らしたよ、やっぱり鉄骨かつぐとわかるんだ」 「ああー、おまえは若いのにえらい、その調子でがんばれよ」 親子孫くらいに歳が離れたもの同士がこうやって勝手なおしゃべりして楽しむのもめし代のうちだから安いもんだ。 ●どうでもいい第四話● 「あれっ、入口の暖簾かえちゃったじゃない。まえはさ、大衆食堂って紺暖簾だったんじゃないの」と、おれ。 以前は大衆食堂と染め抜かれた紺地の暖簾だったのだが、茶色の地に「お食事」という気取った文字のものにかわっていた。だけど、小さな入口には重そうなおおきな暖簾だ。 「そうそう、そうだったんだけど、夏にはね、戸をあけっぱなしにするだろ。すると、前の暖簾の丈だと短いから、中で飯くっているひとと、外を歩くひとの目線がね合っちまうんでさ。やっぱり、目線があってはまずかろうとね。かえたんだけど、いまじゃ、大衆食堂ってはいった丈の長い暖簾がなかなかないんだよ」 夏は戸を開け放って、大きな暖簾をたてかける。壁にとりつけた二十センチほどの扇風機がふたつ。客が勝手につかう。 「ああ、暖簾の丈もだんだん短くなっているんだね」 「そうなんだよな。うちみたいに、ほんとうに日除けや目線避けにつかっているとこなんかもうないだろうからな。飾りだから小さくていいのさ」 おれとおじさんは、のんびり、暖簾のあいだにちらちらする外の通りを眺めながら話をする。 「あそこのホテルだけど前からあったかなー」 「いやだねーもう五、六年になるよ。でもさ、おれなんか毎日見えるからだけど、そうでもなきゃ、ホテルなんて用がないから気がつかないね。みんな自分の好きなものしか知らないよ。おれなんかねパチンコ屋なら、どこにあってもすぐ気がつくね、だけどよ、そのとなりの銀行なんていわれたらもうわからないね。銀行なんかまるで用がないもん」 >次のページ >もくじへもどる |