『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


自立編*食堂利用心得の条 オトナの道

食堂煽動語録の巻

*一、オトコひとり食堂にはいる*

  どんな食堂でもいいというわけではない。ひとさまざまであるから、初心者は、入るのにワンランク「勇気がいる」食堂を選ぶこと、といっておこう。その前にいろいろな食堂で見聞を広げるのは悪くない。
  ふさわしい標準的なスタイルは、「ポツンと」たっているコぜんめしやという感じの食堂」というのが目安である。だいたい、こんなぐあいだ。
  一、独立した古い家屋である。さびしいわびしい感じが漂う。客がひとりも入っていそうにない。
  二、店名が日本語で、漢字かひらがなで表記されている。
  三、看板や暖簾の文字が太い。額に汗する人を思わせるゴツイ書体である。
  四、看板や暖簾に「食堂」「大衆食堂」の文字がある。
  五、外から店の中がみえない。あるいは暖簾のあいだから覗かないと中の様子がわからない。
  六、入口が引き戸である。できたら木枠に板ガラスが望ましい。自動ドアではだめだ。
  七、外装に、日本の慣用色、茶とか紺とか灰色などの地味な色以外つかってない。それがしかも日焼けなどして古ぼけている。このため、野暮で貧相にみえる。派手にオイデオイデ自己主張しているようにはゼッタイ見えない。
  八、ちゃんとしたものを食わせてくれるかどうか、あやしい雰囲気である。
  こういう同じ条件でも、ライト級からヘビー級までいろいろである。自分で見て、ワンランク上のヘビーな感じを選択しよう。
  注意一  昼定食をやっている大衆割烹、小料理店などとまちがえないように。とくにちかごろは「定食」と白地に紺文字の幟をたてたりするからまぎらわしい。大衆割烹、小料理店などには、「食堂」「大衆食堂」の文字がない。
  注意二  昼めしの時間帯だけではなく、はずれた時間か夕めしを必ず経験すること。昼めしは、自立してくっているというより、全国一律昼めし時間に付和雷同して行動しているだけで、構造的に独自性が保持されてない欠陥がある。食堂でめしをくう行為は、あくまでも自立的でなければならない。
  注意三  必ず、腹が空いているときに入ること。

*二、食堂のめしをうまくくえるか*

  ひとりでくう食堂のめしはうまいか?わびしくないか、さびしくないか。ということを聞かれることがある。おれは、こう返すのだ。
  それでは、ひとりでも、めしを楽しくうまくくう方法を知っているか?
  おれは心配だ。
  たとえば、小学校五年の家庭科の教科書にはこうある。
  「わたしたちの毎日の食事には、栄養素をとるためのほかに、人びとの心のつながりを深めるはたらきもある。家族や親しい友人といっしょに食事をすると、楽しい気分になり、いっそうおいしく感じる」
  こんなことをへんに信じたままオトナになった不幸。家族や友人がいると楽しくめしがくえるとシッカリ思い込みができあがっている。そういうオトナの恰好したガキがいる。必ず、めしくい行くのに連れをさがすというオトナ。誰かと一緒のめしじゃないとさびしがるオトナ。まわりにいくらでもいるだろう。
  ひとりで食堂にもはいれず、昼めしは職場の仲間と一緒にゾロゾロ、夕めしは恋人か気のおけないひとと待ち合わせ。じゃなきゃ、テレビの前でコンビニ弁当。これじゃ人生でない。
  しかも、こういう連中が行くところは、明るくてオシャレで話題性のある店か、スナックか小料理店の昼定食というあたりだ。そういうところで、めしをうまくくわせてモラオウ、と思っている。もたれかかりもいいとこだ。
  それだけではない、めしを一緒にくっているから家族の絆が深まった、二人の愛は深まった、なんて思い込んでしまうオトナ。不幸だ。
  自分でうまくくう方法について考えたことがない。生活最大の誤りである。
  ひとりでもうまくめしをくえる、そういう自立を先に極めなくてはならない。
  「家族や親しい友人といっしょに食事をすると、楽しい気分になり、いっそうおいしく感じる」なんてのは主観の問題なのだ。めしくう前にある、好きだ、いいやつだ、自分に都合のいいやつだ、という感情のはたらきがあるからだ。「心のつながり」だって深まらない例なんてゴマンとある。テレビや映画によれば、破局的場面はめしのときってのがけっこうあるぜ。
  めしは、自分でうまくくうというのが原則である。その方法は簡単だ。
  一、うまくくえるときにくう。
  つまりお腹の空いてるときにくう。逆にいえば、めしのとき以外に、だらだらちょこちょこくわないこと。
  二、よくかんでくう。
  とくに、二は重要だ。ふつうは、「唾液分泌」だの「消化」だのという、およそ生活言語ではないもので説明をくわされることが多い。そんなもんじゃない。よく噛むということは、不思議な世界をつくる。牛乳をガシャガシャやっていると突然バターができるように。よくかんでいると、いい気分になれるのだ。うまさ楽しさには不可欠なのだ。
  食堂では、ひとりでめしをくっているひとが多い。とくに夕めしどきには、みんな人生を噛み締めるようにゆっくりゆったりくっている。そうすることがうまいめしの条件であることを体得しているのだ。
  単純に正しい生活である。
  昔はこの原則がよく守られていた。昔はくいものが少なかったから何くってもうまかった、というのはちがうね。そういうウソはいいかげんにやめてほしい。トマトやキュウリがいまのように温室育ちのぼんぼんのようなフヌケな味でなかっただけではなく、うまいものをうまいときうまいようにくう生活を知っていたからだ。
  正しさをゴミにした生活。
  ちかごろはスナック菓子だの、それもカロリーや栄養表示のあるスナック菓子をカリカリサクサク。会社の中には自動販売機。コーヒーや缶詰ドリンクをガブガブ。これじゃ食生活なんてあるのかい。生活というのは、もっと自立的に行われているところのものだ。
  てめえの胃袋は食品会社の端末機か。
  この原則をくずさなければ、「家族や親しい友人といっしょに食事をすると、楽しい気分になり、いっそうおいしく感じる」ことがあるだろう。それは、自分が、うまくくう原則を守ったからなのである。その上で、家族や親しい友人をいいひとたちだと思う自分があるからなのである。
  おれたちが生きていくうえで必要なことは、家族や親しい友人がいないところでめしくっても、「楽しい気分になり、いっそうおいしく感じる」ことなのだ。自分の口の中の食べ物は他人にとっては汚物にすぎないが、自分はいい関係をつくれるのである。
  であるからして、ひとりで食堂でめしくうことは、とても重要だ。ひとりで食堂でめしくって「楽しい気分になり、いっそうおいしく感じる」ようになって、はじめて一人前である。


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