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『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


自立編*食堂利用心得の条 オトナの道

食堂煽動語録の巻

*三、食堂からはじめたやつは強い*

  食堂のめしはオトナの生活である。
  オトナとは、何か?をもう一度はっきりさせよう。
  真実オトナとは、独自、であるひとだ。オトナというのは、ひとはひとおれはおれ、と、独自でなければならない。
  その独自へ、生涯をかけて挑戦するのが、オトナの道である。
  さっきもいったように、食堂はそのように生きているし、食堂でめしくう人たちは、そのように生きている人たちだ。食堂のめしを選択するということは、そういうエネルギッシュな生きざまと生活の選択なのだ。独自をつらぬくには、バイタリティが必要だ。タフでなくてはならない。
  青春の旅立ち方。
  ひとりで立ちションやれて銭湯に入れて食堂めしをくえるようになれば、露しのぐところから、独自の、オトナの生活が可能である。
  また、そのように旅立つべきである。とくに都会のサラリーマン家庭のワカモンは、いつまでも親のところでめしくってオトナ面してるんじゃない。現代の都会のサラリーマン家庭には何もないのだ。あるのは消費のカスだけだ。家はゴミ箱だ。それは家が悪いのではなく、都会の家の宿命なのだ。そのことをいつわって過ごして、どこがオトナか。
  カアチャンだって自立できる。
  独立するときは、無理矢理バス・キッチンつきのアパートを借りることはない。そんな家賃のために、ゆとりを失い、エネルギーをぬかれるようなバカをしてはならない。それでは自分の人生ではなくなる。最初から、自分の流儀独自を捨てるハメの家賃なんて、ばかばかしさの上塗りだ。
  賢い「低所得、低未来」の若者は、食堂の近くに、安い部屋をみつけるのだ。そして将来をうかがうのだ。これなら、カアチャンだってトウチャンと別れてはじめられる。なによりも、オトナは、苦しくても、独自であることに生きるべきだ。
  会社も辞められる。
  いつでも辞表をたたきつけられる覚悟の生活をする。いざとなったら、路上や橋の下からでもいい、ゆとりをもって世間にのぞむのだ。
  そうやってまで、オトナは、独自、をうかがうものなのである。
  みんな、いくつになってからでもいい、食堂から自分の人生を突っ走れ。

*四、「おれにはこれっきゃない」*

  「独自」もいろいろである。モラルなんかくそくらえ。流行なんかくそくらえ。権力権威などくそくらえ。ちょっとアマイが、自分に正直に生きる、とか。つまるところ、他との「差異」ってことになるだろうか。それは結果だ。いろいろでいい。
  だけど、「差異」そのものが目的になると、フツーのオトナでもけっこうシンドイ生き方になると思う。破滅的だ。
  それは勝手にやってくださってけっこうだが、おれがいうのは、せいぜい「おれにはこれっきゃない」というていどの独自なのである。「おれにはこれっきゃない」という言い方でも、誤解を招くカッコウよさがあるかもしれない。
  「おれにはこれっきゃない」とは、堕落から破滅にむかうか、成長から成功にむかうかはまったくわからないものなのだ。破滅も成功も結果にすぎない。いま、「おれにはこれっきゃない」とやることが独自なのだ。
  そういう、昔は「生きざま」といったが、「生きざま」を知るきっかけは食堂だった。食堂のめしは人生を深める。
  食堂の兄イのおしえ。
  かって、二〇歳のころだ。一九六三年頃だったと思う。東京・渋谷区の京王線笹塚駅近くの食堂で、クセー息をはきながら馬券のやり方を勝手にしゃべったあげく「いい話してやったんだからよー、めし代はらえ」なんて睨みをきかせた筋肉労働者風の兄イにであってしまった。暴力的に独自になれないおれは、ああいいですよ、とカルく応えて、しぶしぶ払ってやった。あとで考えると安い授業料ではあった。
  そのときはじめて、バクチという競馬に没入するオトナに出会ったのだ。そいつが、今日かせいだカネを明日はぜんぶ競馬につぎこむという迫力で、「おれなんかサーこういうどうしようもネーことしないとサー生きていけないんだ」と言っていた。生きるということをごくフツーに語ってくれたのだ。すごい真実味があって、フムフムと感心した。そう、そのうなずいたことが、めし代を払わされる根拠になったにちがいない。まわりの景色は忘れても、そういう言葉だけ残るものだ。焼きすぎたアンパンみたいな赤黒いやや肉付きのいい顔に、細い目。その奥がギランギランしていた。
  それ以来、競馬でもなんでも「おれなんかサーこういうどうしようもネーことしないとサー生きていけないんだ」と思ってやるべきだし、それでいい、と思っている。バクチだけではなく、ほとんどの仕事がそんなもんではないか。そういう「おれにはこれっきゃない」ってのもアリなのである。
  ある種、暗く重い思い込みである。開き直りである。
  覚悟がないのに騒ぐな。
  就職するといっぱしの仕事をしているようなツラして、オッズの話をしないと流行のオトナでないという感じで、若いチイチイパッパが、「オッズ、オッズ」とか言って騒いでいる。オトナでないってこと。いいか。やるなら「おれにはこれっきゃない」という感じでやれよ。オトコは黙ってバクチに打ち込む。ひとり食堂のめしくいながらな。バクチというのはそういうものだ。ディズニーランドの「健全な娯楽」とはわけがちがう。
  ネクラだって楽しくやれる。
  仕事だってそんなに明るいもんじゃない。税金のため会社のため働いているんだから。それを無理矢理ネアカにとりつくろうとするな。暗くても、楽しい人生ってのがあるんだ。そこんところが、食堂のめしをくわない未熟者にはわからない。明るく軽くなきゃ、楽しくないと思い込んでいる。無理矢理ネアカをする。けなげにしてばからしい。
  現実が暗かったら、暗くていい。ネクラなやつだっていていい。だけど、暗かろうが明るかろうが、日々楽しいというのが、したたかなオトナの生活なのだ。そこんとこを理解するには、やっぱり食堂のめしをくわないとだめだろうね。

*五、役にたつ定義*

  結論。おれの嫌いな定義。
  オトナの生活とは、他人の目を気にすることなく、つねに独自に決断をくだせるゆとりを、自分の生活の守備範囲に堅持しつづけることである。オトナヘの三段階はそのことの重要性をしらしめ、かつ可能にするのである。ゆえに、食堂でめしくうことは、自分の生活の守備範囲にゆとりを確保することなのである。そのゆとりが楽しさやバイタリティになる。かなりのことでもへこたれないね。
  身に覚えのあるおじさんたち、このことを鮮明に思い出し、真実オトナの道をつらぬこう。


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