『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


自立編*食堂利用心得の条 オトナの道

食堂利用心得の巻

*四、東京の真実をつきつける食堂*

*来食堂利用心得  真実から逃げないオトナの決断を覚えろ

  一九六二年の春、新宿駅西口の西口会館横の、いまでは「思い出横丁」と看板が出ているが、当時は「小便横丁」という愛称で親しまれていた小さな飲食店が並ぶションベン臭い通りを、何度か行ったり来たりしていた。そのなかのどれかに入るつもりで、チラチラ内部の店員や客の様子をうかがいながら、どうしようか迷い、おれはやっと決断したのだ。
  何を迷っていたのかはっきりしない。ようするに「安心できそうな」というバクゼンだった。ふんぎりの問題だった。だいたい、その狭い路地に入るにも決断が必要だった。
  けっきょくオトナヘの道は、自他の緊張関係における「安心」の創出である。それは決断しかない。
  新潟県の田舎町の出だから、純情だし世間ずれしてない。その上、東京の猥雑さは動転ものだった。高校時代に山岳部をやっていたから、バンカラにして野卑には馴染んではいた方だったが、東京の人工的な汚さは異様だった。田舎の肥溜め便所やブタ小屋のにおいと都心のションベン臭いドブのニオイはまったくちがうものだった。純正な土埃をかむった田舎の家と、煤煙をかぶった都心の街とはまったくちがうものだった。つまり東京は人為的に汚濁なのである。
  その汚濁で、どう「安心」をみつけられるか。
  田舎での食堂体験はまったくガキのようなもので何の役にもたたなかった。東京の食堂に比べると、田舎町の食堂は、はるかにおとなしく清潔で気品があった。東京の食堂は、いくら田舎の野性を落とさずに入れるところといっても、とくに入り口の、いまとは比べようもないほど長く重々しく垂れ下がる紺暖簾に、粗暴な都会的汚濁を感じ、たじろぐこともあった。
  田舎地方と東京地方のこの関係は本質的に何もかわってない。都会は、まるごと廃棄物なのだ。ダーティだ。大都会に正しい生活や明るい生活など突然変異的にもありえない。それは食堂の責任ではない。
  そして薄汚い食堂のめしをくうことは、あるがままの束京、全身腐乱体の東京で生活するあるがままの自分を受け入れるシニカルな行為でもある。
  しかし東京の汚濁を受け入れないで、東京で自立するなんてありうるのだろうか。
  オシャレなレストランは、「夢」を口実に、この現実を隠蔽するところに成り立っているが、食堂は逆につきつけるのである。キビシイ。だから、おれたちはそこでめしくうとき、独自の決断をしなくてはならないし、鍛えられるのだ。タフになれるのだ。

*五、ゴリゴリ「独自」の食堂がいい*

  いまでは食堂はとても、独自、であることにおいて特異である。
  そもそも食堂は、「水商売」という尊敬されない商売の中でも、ひときわ孤立的に自立している。オトナとはこうして生きるものさ、というスジを、ある食堂は剛直に、ある食堂は自然体で、さまざまに示している。激しい暴発しそうなバイタリティとかアクティビティを秘め、偏屈の一、二歩手前あたりで踏み止まっているような食堂もある。
  そして昔から、その独自性が、独自に生きる庶民に親しまれ、食堂のなかは独自に生きる客だらけで、そこに行けば、独自に生きるオトナを問近にできたのだ。独自の独自による独自のための、ようするに、それはときには孤独という言葉におきかえてもいいのだが、食堂は「独自派」オアシスという感じだった。そこには、そば屋でカッ丼くっても、中華屋で野菜妙めライスくっ
ても、充たされることのない何かがあった。
  いまでも、そういう、ゴリゴリ独自の食堂がある。二、三〇年間は、まるでかわってない風情である。夏は冷房なし、戸を開け放つ。冬は石油ストーブかガスストーブ。チンなどつかわない。個性的というより、個性が昇華してしまった、味のあるおじさんとおばさんがコツコツやっている。いろいろだが、どこか猥雑で、時流なんて関係ないよ、というそぶりがあるのだ。
  「個性的に生きたい」だの「自分発見」だのアマッチョロイこと言って、カルチャーセンターに通ったり資格の通信教育を申し込んだり、ボランティアやエコロジーをやろうか、という連中は、こういう食堂で、いまの日本で個性的に生きるとはどういうことなのかをキッチリ勉強するといいと思う。
  諸君!(こういう言い方も昔あった)諸君の中に、いまだ、ひとりで食堂に入ったことがない者がおるか?  オトナ三段階をクリアしてない者がおるか?  そのままバス・キッチン付きのアパートに住んだり、親のふところでヌクヌクしているものがおるか?  気づいたら、そのまま中年なんてものがおるか?  おるとしたら、その者こそ、オトナのツラをしたハナタレ未熟者なのでアール。正しく、オトナ三段階を通過すべきだ。そして、人生の深淵を知れ。
  ちかごろは、二〇歳になれば法律的には全面的にオトナとみなされる。就職すれば経済的にオトナとみなされる。セックスすれば生殖的にオトナとみなされる。とくに都会はそうだ。本人もスグその気になる。イヤハヤ。

*食堂利用心得  独自の生きかたを覚えるために食堂に授業料をはらえ

*六、食堂のまえの立ち小便、なぜか*

  ついこのあいだもである。ラジオの身の上相談では、東京でひとり暮らしをはじめた男が銭湯に行けないということであった。
  ステップ1の立ち小便にいたっては深刻だ。立ち小便は悪い、としか教わってない。小便はトイレでやりなさいとしか教わってない。だから、そこから先、教わってないことをやるかどうかは、非常な勇気の問題になってしまう。自然に決断できないのだ。
  昔。もちろん立ち小便は注意された。それはあまりにも、ところかまわず、でたくなるとすぐやるからだ。少しはガマンしろ、外は便所じゃないぞ、出かける前に便所で済ませろ。そのうえでてくるものはまあしょうがない、という感じのものである。「立ち小便厳禁」というより、なるべく家の便所でやれというニュアンスであった。そうして、同じやるならひとに迷惑にならないやりかたはどうかということも覚えた。ズボンにはね返りがかからないようにするにはどうするか。道徳的にはなるべくがまんしなくてはならないことも知る。モラルとは何かを体で知る。だけど教条としての「立ち小便絶対禁止」はなかった。
  いまは、とにかく立ち小便がダメなだけではなく、小奇麗な水洗便所でやり慣れたまま成長する。
  アルバイトでカネが入ったし、あるいは就職は決まったし、旅をしよう。人里離れたところへ観光客のいない時期に、と。オトナの気分のひとり旅。バスはカネを払えば乗せてくれる。オトナあつかいだ。思えば遠くへきたもんだ……と思うまもなく。寒い。小便がでたくなる。問題は、彼が小便したくなったら、自分で運転手に言ってバスを止めてもらい、客が見ていようが、背中を見せればいいのだから、そこでするという決断をくだせなかったということだ。いろいろなドグマで金縛りだった。バスをバス停以外で止めてはならない、迷惑をかける。立ち小便はしてはならない。ましてバスの中の他人が見ている……。
  なんと、おれの短い人生のうちにそういう例がまわりでふたつあった。ひとりは、どうでもいいことだが、一流大学の大学生だったし、ひとりは望んだ会社に就職が決まっていた。どちらも急性の膀胱炎になり、ひとりは手遅れで肺炎をおこして死んでしまった。悲しい。ああ、そして話のネタにしてスマン。
  いまのワカモンを「軟弱」「指示待ち人間」「自己中心的」と非難するのは簡単だ。いまのワカモンはどうしようもなくどうしようもない。しかしなぜこういうことになったのかといえば、オトナが正しくオトナになるための三段階を伝承してないからだ。
  しかたない、おれはいま伝承にこれつとめているというわけなのだ。正調ジャンクライフ普及
員の使命である。
  ここまできたら、未熟者もステップーからやりなおしてみようと思わないか。おれはその方がいいように思う。このコヤシにもならないカスだらけの地球でサバイバルやるためには。敢然厳然超然と自立するためには。
  だから、食堂のはなしに、立ちションの話をするのだ。食堂は、立ち小便にはじまるオトナ修行の最終段階でありオトナ生活の出発点であることを力説するのである。立ち小便もできないやつが食堂でめしくうようになったら、ジャンク道がすたるからな。

*食堂利用心得  立ちションは悪い、できないやつはなお悪い、食堂にはいるときはこの真理をしってはいれ

*七、オトナの堕落、いつだって遅すぎる*

  オトナの堕落は自然の法則だ。情報化社会では、オトナの堕落はすぐ、若者が鼻毛の先ほどの正しい道をしらぬうちに、若者に伝染する。
  真実オトナの道を生きる。日本で生きるってどういうことなのか。食堂でしか見聞できないことが少なくない。そんなこと家でも学校でも会社でもアルバイト先でも教えてはくれない。食堂の価値すら教えてくれないだろう。
  とくにアルバイトで社会勉強したつもりになるのはやめてほしいね。アルバイトで実績あげたぐらいで、この世は勝てば官軍、実力主義さ、なんて胸をはるフリーターなんてのがのさばっていたことがあったが。若い安い労働力を、うまく使われていただけじゃないか。おだてればよく働くバカはいつの時代にもいる。
  食堂のめしをくって自立したはずのオトナも、食堂を忘れ、真実を伝承する力を失ったりする。オトナも堕落する。堕落は悪いことではない。堕落を自覚しないことがまずいのだ。
  けっきょく、元青年たちは、自立心を産業にあずけて、オトナの位置を後退した。そのかわりに老後の安心を手に入れたはずだった。ところが、ここにきてすがってた大国日本は「産業構造の転換」をしなくてはならないほどゆきづまってしまった。「改革」なんてかっこういい言葉でとりつくろっているが、何の見通しもない。夢の工業化社会がぶちこわれただけだ。
  でも、いまさら自立なんてできるか、とにかく老後を無難に。会社がつぶれて退職金や年金に影響が出ては困る。リストラ「しかたない」。ただしワタシだけは無事でありますように。若者が、どこでどんなめしくうことになろうが、「しかたない」。あとは勝手にやってくれ。「しかたない」判断をするために、めしくいながらオトナになったのだろうか。
  せめて若者にはこう言っておこうか。
  はやく、ひとりで食堂へ行け。食堂に拠って立つことを考えよ。
  遅れるな。
  とくに注意。コンビニエンスストアの弁当や外食産業のめしは、生簀の撒き餌にくいつくようなもので、人間的な効果は期待できない。なぜならカネのかかる人間関係を合理的に最小限にしたものだからだ。人間は微妙な動作と声だす機能として存在しているにすぎない。だいたいあなたは人問ではなくターゲットである。そういう人間関係の希薄なシステムのめしを、なんの抵抗感もなしにくうようになったら、人間として敗北である。

*食堂利用心得  オトナたちは必ず子供たちに食堂をすすめよ、それがただひとつの、生きてるうちにいいことしたな、になる

*八、オトナの女*

  女?
  昔は女がいた。食堂でめしくっていると、立ち小便も辞さないという感じの女がいたものだが。
  実際、ふだん立ちションする女を見ることができた。おれはそれを田舎的現象かと思っていたのだが、上京してからも、目撃したのだ。
  イザとなったら大事な知恵だ……。
  ともかく人生は意外なところに落とし穴があるものだ。それだけははっきりしている。女たち、フェミニズムもいいが、立ちションを正しく伝承せよ。
  しかし、女の場合はオトナの条件から立ち小便の項をはずしてもいいだろう。でも、立ち小便しない女はやはり決断力がいま一つ鈍る。ひとりで食堂には入れないことが多いはずだ。三大条件は感覚的に密接に連動し複雑に混合している。
  女は男を連れて行けばいい。ただ、食堂に入ろう、と決断するのは女だ。もし、ひとりで食堂めしをくったことのない男だったら、張り手でもくわせて、励ましてあげてもいい。美談になる。
  食堂には正義がある。
  ともかく、連れションみたいに、ゴキブリゾロゾロ、女同士で連れ立ってキャッキャ食堂へ行くのは止めてほしい。オトナの聖地を乱す行為だ。食堂によってはつまみだされるだろう。食堂はそれほど甘いところではない。みんなが心地よさの中に捨てた、正しさの判断基準を、食堂は毅然と行使するパワーがある。
  「カワイイー」とか「オシャレー」とかいうあいまいな言語の中に、はっきりした正義の言葉を見失った女たちは、必ず聖地食堂を訪れ、みそぎをすまさなくてはならない。女は選び抜いた男と共にシリアスにのぞむべきだ。
  可愛い女。
  フツー女についてまわる割くう生活にくたびれ、なおかつ自立にすがり、しらけひねくれ自虐自己嫌悪恨み節の病にむしばまれた女たちは、食堂で、大脳の中を洗い直したほうがいい。食堂からやり直すのだ。ガッツなめしが必要なのだ。てっとり早く、思いっきり腹をすかしておいて、食堂の大めしをガバッと無我夢中でくうことからはじめたほうがいい。コンビニ弁当や、ときたまのオシャレな食事にはない、ババーンとした解放感のもと、きっといい啓示をうけるはずだ。
  男を理解する方法。
  理由もなく三大条件のひとつでもみたしえない男がまわりにいたら、注意し観察しよう。人について、深いところの何かが欠けている可能性がある。やさしいかもしれないがあたたかくない親切だけど計算されている。強いかもしれないがしたたかさに欠ける。知識は豊富かもしれないが真実にほど遠い。などなど。
  でも三段階を経過したやつにもワルはいる。セクハラ猥褻暴力行為だいすきってのもいるだろう。三大条件をみたしたワルのほうが、本格的でいいかもしれない。立ちションできないワルなんてワルの感じがしない。注意し、かつ、あたたかく理解せよ。いましている話は善悪をこえたところのものだ、ひとの深層、人間の生存という高度なレベルでの話なのだ。

*食堂利用心得  食堂は男の世界だ、それゆえ人間の世界である、人間になりたい女は食堂にゆけ


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