『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


自立編*食堂利用心得の条 オトナの道

食堂利用心得の巻

*一、オトナヘの三段階*

  なんでも順序というものがある。食堂のこととなると、やっぱり、ここから話しはじめなくては、正統でない。
  昔はオトナになるための三つのハードルがあって、それをクリアしながら成長した。
  ステップ1 ひとりで立ち小便ができること。
  ステップ2 ひとりで銭湯に入れること。
  ステップ3 ひとりで食堂でめしをくえること。
  である。
  いま思えば、この過程はとてもうまくできている。
  つまり、まず、自立に不可欠のワザ、きわめて生存的かつ日常的なワザが身につく。鳥が翔び方を覚えるように。
  それから、内面的成長がはかられる。ステップ1あたりで自分とは何か、ステップ2あたりで他人とは何か、ステップ3あたりではオトナとは何か、を現実的に知るのである。言い方をかえると「立ちションでおのれを知り、銭湯で他人を知り、食堂でオトナとして世間に立つ」のである。
  そして、無理のない環境適応である。段階を追うごとに、より広い世間、より複雑な自他の関係のなかに身をおくことになる。そのたびに必要な決断のしかたを覚える。オトナとは、一人で決断できるひとなのだ、自分の意思と考えで生きるひとなのだ、ということを理解する。
  どうだ、とてもいい成長のプロセスだとは思わないか。もっとも「生存」ということを忘れてしまった連中には、わからないだろうが。
 そこで、

*米食堂利用心得 食堂でオトナになり食堂からオトナがはじまる

  自立というのはじつに下世話なことで決まるのである。金銭教養なんてまるで関係ないのである、しゃらくさいのである。

*二、奥が深い食堂ここがちがう*

  それで、「ひとり食堂に入る」は、最後のハードルなのだが、これがじつは困りもんだ。食堂は奥が深い。一度やってみれば修了ってもんでない。
  食堂はフツーの飲食店とはちがう。
  あかの他人同士が、あかの他人とは思い過ごせないような密な空問で、日常の最大にして最高のイベントであるめしをくうことをする。
  「私的な距離」などない空問で、私的にめしをくう。ここがカンジンなところだ。
  そして密な空間であるがゆえに、お互いのめしの成功のため、お互いが道義的責任を負わざるをえない。そこでは店側と客側という立場をこえた関係も生じる。
  こういう状況をひとはよく「家庭的」だという。しかし食堂の客には家庭的な感じが好きな人もいれば、ヘン、家庭なんてくそくらえっていうやつもいる。家庭的にやりたいやつはやればいいし、そうでないやつは、それぞれの意思にしたがう。したがって「私的な距離」がないことを理由に「家庭的」だなんていえない。
  ようするに、とても自立性やモラルやマナーのレベルの高い空問なのである。アタマをつかわなくてはならない。ほんらいアタマというのは、こういうところにつかうものなのだ。
  家庭だろうが、サークルだろうが、会社組織だろうが、タテだのヨコだのいっても、しょせんボスのいる社会である。しかし食堂の空間では、真実一個のオトナとしての実存、人問関係だけである。こういうところでめしくってみなくては、人間関係のほんとうのところは理解できない。いいかげんなところ、きちんとするところ、などがウニュウニュウニュと絡み合ってうまくいくのだ。いまでは、こんなところは、断定的に、ない。
  このへんが、他の飲食店とちがうところだ。
  フツーの飲食店は、寝台列車みたいなもんだ。店が用意した満足の条件を客はカネをだして買うだけである。楽しい会話となにやらありがたそうな能書も、料金に合わせて用意されている。また「私的な距離」も料金しだいだ。そういうサービスの消費である。
  食堂は相部屋雑魚寝システムである。ひともよし自分もよしとする関係をつくらなくてはならない。ここに自他の緊張関係が発生する。基本は個人プレーだが、「あうん」の呼吸のチームワークのようなところがあって、客がひとり出入りするたびに、食堂内の局面は、どんどん変化する。入るほうにすれば、そこにスッと入っていって進行中のチームプレーに何くわぬ顔で参加し、局面を判断し、会話をしたきゃするし、口をききたくなければ黙ったまま、めしくって、スッとひきあげるのだ。その間に、他人のめしをおかさず、かつ自分の最大の満足を追求するのである。
  そこでくりかえす。

*食堂利用心得  他人のめしをおかさず、かつ自分の最大の満足を追求する

  なかなかのワザの世界だし、その関係に人間の深淵をみるのだ。人生そのものであり、人生の実行であり、人生の創出である。そして、社会とは、本質的にこういうものなのである。
  だから、食堂にはひとりで入ってみなくてはいけないし、一度ではたして越えきっているのかどうかはっきりしない奥の深いハードルなのである。

*三、未熟者は謙虚に食堂にむかうべし*

  昔は、三段階は順番にクリアするのが自然だった。
  連れ立ちション→ひとり立ちション→連れ湯→ひとり湯→連れ食堂→ひとり食堂。このように発展段階がはっきりしていたし、新しい段階を経るたびに、事前に友達とイッショという導入状況があり、独り立ちするたびに、多少の恥ずかしさや気おくれを克服する決断や勇気や強がりがともなうのがふつうだった。
  だいたい十歳前後から「自覚的」に行われた。立ちションはずっと平気でやっていたのに、ある日とつぜん気恥ずかしさに目覚める。そこを克服するところから始まるのだ。おれの子供のころは、風呂のない家が普通だった。銭湯へは親と一緒だった。ところが立ちションをクリアしたころから、近所の同級生たちと連れ立っていくようになり、そのうちにときどきひとりでいくようになる。だいたい陰毛が生え始めたころは、銭湯でお互いを確認する。ヒゲの剃り方も銭湯で覚える。これでけっこうオトナの気分である。そして高校生くらいになると、ちょっと不良っぽい気分で不良っぽいやつと食堂に入るのである。いけない行為だった。だから、ひとりで本格的に食堂を利用するようになるのは上京後の単身生活がはじまってからだ。
  それで、ステップ3に挑戦しているころは、ちょうど食欲まっさかりの青春時代なのである。青春の食堂で、オトナヘの修行は終わり、オトナの道への挑戦がはじまった。昔はよほどのカネをもっているか、まったくカネがないか、どちらかでないかぎり食堂のめしを避けてとおれなかった。
  いまはちがう。めしのくいかたは、くうところ、くうもの、値段、さまざまである。どこでどんなめしをくうかは、自分の生活のしかたの選択になるのだ。つまり自立性の選択なのだ。
  そのとき、未熟な自分は食堂からはじめようと思えたら、マル。賢い人である、かどうかはしらんが、未熟者の当然の選択である。
  しかし、人間はいつまでたっても未熱だ。食堂に通いつづけなくてはならない。

*どこのめしよりも先に、まず食堂のめしをくえ


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