『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


煽動編*空前絶後、深い正しい東京暮らし

*四、奥の深い、いかがわしさ*

  「いかがわしい」は、『ダイヤモンド国語辞典』では、「@疑わしい。Aよろしくない。へんな」である。
  この「へんな」ってのが気にいったね。『岩波国語辞典第二版』だと、「@どうかと思われる。うたがわしい。信用出来ない。A道徳上よろしくない。あやしげだ」ということになる。やっぱり「へんな」が、へんにいい。
  なぜ「へん」かというと、

  ●東京の食堂のいかがわしさ●
  一、意固地なほど飾り気がない。粗末である。
  二、うすぎたない。意固地なほど薄汚い。
  三、意固地なほど猥雑である。
  この三つの要素がまざりあって「いかがわしい」のである。この「いかがわしさ」を前にしたとき、ミンナの感覚は、きっと、「へんな飲食店」を感知するにちがいない。
  ミンナは、オシャレで明るい、がフツーの飲食店の条件だと思い込んでいるはずだ。それが証拠には、着色料、発色剤、脱色剤を使用して、あかるくきれいにシンプルに演出された食品を、「とってもピュアね」なんていってよろこんでくっている。漂白、脱色して、あるいは着色して、かがやかしい光をあてると「きれい」とおもう。土のついた野菜や魚の内臓はキタナイとおもう。
  そして、「いかがわしいたたずまい」が田舎の田園風景のなかなどにあると、ミンナの感覚は「素朴」とみるのだから、へんだ。「野性」などは、東京では「うすぎたない」とみられるのだが、山村などでみられる「野性」は「そのまンまの自然があるわネ」などとセンチメンタルに評価される。ほんとうは、「へんな」「いかがわしい」のは、そういうミンナの感覚なのであるが、そのことは不問にしよう。
  そういう感覚の問題はべつにしても、なお、東京の食堂のたたずまいはいかがわしい。いまや、「いかがわしさ」は、正統な東京の食堂のたたずまいとして欠かせない条件なのである。いかがわしくない東京の食堂なんて、ダシのきいてない味噌汁みたいなものだ。ニオイのないクサヤみたいなものだ。だから、あえて「素朴」とはいわずに「いかがわしい」といわなくてはならない。
  建物、暖簾、看板……いかがわしい。粗末だし、色気がないし、ひかっていないし……クサい。だいたい人間は密集するほど、いかがわしい存在になる。食堂は、その姿をそのままさらしているのである。東京の食堂には、体内から発するような、いかがわしい、「鈍い輝き」がある。


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