『大衆食堂の研究』復刻HTML版 エンテツ資料棚>『大衆食堂の研究』もくじ |
![]() 煽動編*空前絶後、深い正しい東京暮らし *二、深い正しい東京暮らし* ●いじましい文化を超えて● おれたちおじさんたちの世代だと、東京育ちのやつだって、ちゃんと食堂体験をしていた。やつらにかなわないのは、高校生ぐらいのときから食堂でおおめしぐいをしていることだった。 「東京の町」ってのがあって、みんなで「町の食堂」を利用していたわけだ。 食堂の家族がいて、黒い学生服を着た男、汗をたっぷりかいた印半纏の男、油のにおいがする作業服の男、白い開襟シャツの会社員、東京育ちのやつも上京したてのやつも、いろいろな欲望をかかえて、みーんな一緒にめしをくった。この雰囲気が、いまどきの東京の店にはないね。 とくに最近の、「知性」をオシャレにする「個性的」なホワイトカラー系は、汗くさい男がいる食堂を嫌うらしい。おれはあいつらとはちがうんだ、なんて、それが差異と個性の主張だ、ナンテ。なんて可愛いおバカさんなんでしょ。 ひごろ食堂を利用しているホワイトカラーでも、近くに工事現場ができて、そこのひとたちがくるようになると遠ざかり、現場がなくなるとまたもどってきたりするんだそうだ。ま、もどっにてくるだけ可愛い。 おいオシャレ野郎。おまえたちの個性はそんなセコいレベルか。こころ貧しく哀れな知性。 ともかく、昔は、仕事をしている住んでいる御町内の食堂でめしくえば、みんな同じ東京暮らしの人だった。いまでも食堂の流儀はそうだ。だから食堂には東京の町が残っている。しかし、まわりのほうで、そこんところがわからなくなってしまった。 で、世に流布されている「江戸東京文化」という気取りの世界に、大衆食堂が登場することはない。これは、とくに昭和三〇年代にして一九六〇年代の「大衆食堂現象」をおもうと、あやしいことである。「江戸東京文化」は、ようするに市場の民のオシャレ着なのだ。大衆食堂なんてオシャレ文化としてはふさわしくない、というわけだろう。 おれの感じでは、「江戸っ子」とか「東京人」とかがやたら、江戸っ子ってのはね、とか、東京人ってのはね、といじましいことをいって、全国一の人情や感性や知性の優れ者であるがごとく威張りだしたのは最近のことのように思う。だいたい、気風のよさそうなことをいうわりには、「江戸っ子ってのはこうでなければならない」なんて、脅迫観念をふりまわしてチビチビ細かいちがいをいいつのる。 始末がわるいのが、あとからやってきた「東京人」ってやつだ。これはもう、なんでも「山の手流の観念」でオシャレにしてしまう、そうでないものは切り捨てる。ちかごろは、無農薬有機栽培までオシャレな生活の道具にして。オイオイそれならウンコとションベンの話もちゃんとしろ、といいたくなる。それぐらい、なんでもキレイゴトだ。料理はするが便所の掃除はしない、ゴミ処理はだれかにおしつける、というたぐいの「食文化・料理文化」「芸術的な生活」なんて、もういい。 ●ロクデナシの唄● ほんとうは東京ってのはね、東京で一日暮らしたら東京人だし東京をふるさとといっていいんだよ、そういうところサ東京って、というぐあいに、もっとふところが深いんだと思う。 食堂には、そういう東京の町の深いところがある。ペッとはがそうとすると、東京の地面ごとはがれそうである。いろんな人間があつまってできた、東京の町の呼吸があるのだ。そういう東京につからないで、なにが東京暮らしか。 こんな言い方をすると、ああいいね、いろんな人間模様があるんだね、好きだな、ボク人間大好き、という、キレイゴトの気味の悪いことになりかねない。 だから、こうもいっておきたい。 つまりいろんな人間といっても、束京は、しょせんバカと薄情者が群れるところである。土を掘ることもできない、木にのぼることもできない、海ですごすこともできない、ものを担ぐこともできない、自分が食い散らかし糞するあと始末もできない。だけどバクチ根性の野心だけ大きい。そういうバカと薄情者が、ありもしない「自分の才能」にカッコつけて、東京でバクチをうつ。田舎では、こんなバカと薄情者は一日だってくっていけない。だから昔は、こういう連中を、田舎では「ロクデナシ」と呼んだ。 ところが東京だと、そのロクデナシがなんとかなる。今日一日なんとかなれば明日もなんとかなるだろうとやっていると、けっこうつづくのである。すると自分には才能があると勘違いする。そうやって大賭博場東京はできた。このバクチやるしか能がないロクデナシのために、どれだけ親の田舎が苦労しているか。いまじゃ、原子力発電所やゴミ処理まで引き受けて。 おれたち東京の電力のために、新潟の海岸に原子力発電所をつくるのはやめよう。やっぱり東京の世田谷あたりにつくろう。駒沢公園をつぶしてもいい。あちらでは、賛成だろうと反対だろうと、建設となれば、原発と暮らす覚悟がいるのである。その覚悟を、東京の人間だけができないというわけはない。 東京あたりで偉そうにキレイゴトするのはいかがなもんでしょうか。 ロクデナシにはロクデナシのめしの食い方がある。そこんところを食堂でわきまえておくべきだ。そして、市場のキレイゴトをじっとみつめて遊ばさせていただく。これまた、東京ならではのおもしろさである。これなら、むなしさも残らない。おもしろいだけだ。 食堂のめしもくわずに、本気になってキレイゴトするやつが、いちばんわかっちゃいねえ、ってことだ。 ちっとは、東京のロクデナシは、生存の方法を考えなくてはならない。いろんなロクデナシが あつまってできた東京の町らしいめしのくいかたを、食堂で深めなくてはならないってことさ。 >次のページ |