『大衆食堂の研究』復刻HTML版         エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


煽動編*空前絶後、深い正しい東京暮らし

*一、東京暮らしの真相*

  ●東京暮らしの原則●
  一、食堂のありかを知っておく。
  二、腹がへったら食堂に入る。
  三、何かの決断をするときは食堂のめしをくいながら考える。
  なぜか?
  それはこれからの話。ジャンクライフの流儀としては結論を急いではいけない。なにごともプロセス(道中)を楽しむ。くたばれ、セッカチ、携帯電話野郎。
  まず、これだけは言っておこう。
  東京の食堂を知っているひとは東京暮らしを知っているひとだ。ということは、東京の食堂を知らないやつは東京暮らしを知らないやつである。
  「近所の食堂」がなくなっているのだから、食堂を知らないやつが増えるのはしかたのないことなのか。しかし、独り暮らし野郎までが、近所の食堂がないところに住む。これは、どうかしている。わかってない。ドジだ。
  東京に住んでいれば東京暮らしというわけにはいかない。そこが、大都会東京暮らしのむずかしさ。
  東京は、機械化と大規模化とマネジメントの産業がのさばる全国市場だ。なにしろ「東京株式会社」などといわれるくらいである。食う寝るところ住むところ、なにするにしろ産業の御世話になる市場活動にのみこまれ、暮らしなんて象に蚤、クジラにプランクトン。市場活動貢献度や金遣いのあらっぽさをしめすにすぎない「生活レベル」の維持向上に我を忘れて、人生ってどんなんだっけ? の気分になる。いや、もうそんな疑問もおきないか。
  どの地方にいっても、暮らしというのは、その地方の暮らしである。ところが東京では「東京地方区の暮らし」は、がらくたのようにしか残っていない。つまり、がらくた、イコール、ジャンク。東京ジャンクライフとは、東京地方区の暮らしのことである。これをやらなくては東京暮らしにならない。それは、まさに大衆食堂からはじまるのである。
  そこで東京暮らしの原則は、なによりも、
  まず食堂の所在を確かめてから、住まいは決定すべき、
  ということなのである。
  ときすでに遅し、住まいが決まっているのなら、そして近所の食堂がなかったら、通勤通学の途中か、一時間かけて行くところでもいい、食堂を見つけておくべきだ。
  もちろん、家庭のあるおじさんおばさんも、食堂をもっと自分の暮らしの中に位置づけるべきである。すると、ファミリーレストランが提案し(と産業側はいっているが、提案とは脅迫観念のばらまきである)、もろくも底が割れた、偽善にみちた団欒ごっこのような食と家庭を勘違いすることもないだろう。いや、家庭のほうは御自由でいいのだが、すくなくとも、こういう実験はやってみる価値がある。
  たとえば、家族でファミリーレストランで三回めしをくったとする、そして、そのへんの大衆食堂で家族で三回めしをくったとする。あとで、ま、何年か後でもいいのだが、どちらのほうが手応えのある暮らしとして記憶のなかに生き続けるか。

  ●東京暮らし度のはかりかた●
  そこで、ヤブカラボウに深い正しい東京暮らしのはかりかたを、まとめてみた。ひとつの目安にしてみよう。
  東京暮らし度0 まったく食堂でめしをくわない………軽くて薄い市場の民
  東京暮らし度1 一年に最低一回は食堂でめしをくう………軽くて薄いジャンクモノ
  東京暮らし度2 一年に数回は食堂でめしをくう………軽くて薄いジャンクモノ
  東京暮らし度3 半年に数回は食堂でめしをくう………軽くて深いジャンクモノ
  東京暮らし度4 月に数回は食堂でめしをくう………軽くて深いジャンクモノ
  東京暮らし度5 週に数回は食堂でめしをくう………重くて深いジャンクモノ
  東京暮らし度6 まいにち食堂でめしをくう………重くて深いジャンクモノ
  おれはいまのところ「東京圏暮らし」なのだが、だいたい3というところだね。自炊いちばん、食堂にばん、三時のお酒に大衆魚、というスタイルなのだ。
  おもしろいことに、全国区市場活動にはまって自分を失い、オシャレなビジネスとオシャレな消費が人生だとがんばっているやつは、軽くて薄い0だ。テストしてみればわかる。また、意外なひとが、意外に深いということもある。

  ●めしからの出発●
  いまの東京圏の深層にはびこる「むなしい気分」は、そうとうなものらしい。なんか、「こころの問題」とやらがあって、みんな「満たされない願望」をもってウロウロしているんだそうだ。
 ウソだろ、これほどステキな大都会で、と思っていたら、比較的近いところに、高級車をなでまわしながら「体の中を風が吹く」の気分の若いやつがいることを聞いた。こんなのはだいたい軽くて薄い0野郎にちがいない。
  同情すべきか、ザマアミロと言うべきか。市場の民をやっているとそうなる。どうせ市場はあるものならば、強い暮らし、テンションの高まるめしのくいかたをしておかなくてはならない。
  確かな生存、確かな日々を感覚的につかめるめしをくっていないと、むなしゅうなるノ。市場にのまれて、ワタシは溶けて流れて虚無の中。
  しかし、ちかごろ、宗教っぼいのや占いっぼいのや心理学っぼいのや文化っぼいのや芸術っぼいのや、ココロっぼいことを商売にしている連中だけが元気なのは、そういうむなしさの流行のせいなんだろうか。ようするにこころにいいことありそうなふりして、他人のこころを手玉にとる、胡散臭いやつらが、ちかごろやたら目立つ。
  「宗教が神をつくり、科学が恐怖をつくり、病人は医者がつくり、芸術は画商がつくり、精神病患者は精神分析医がつくる」んだそうだ。だとすると、「これは私のお腹を痛めた子です」という母親のセリフがいちばん真実に近く、それだって嘘があるかもしれないが、ほかはもっと怪しいことになる。
  そこで、まあ御安心せよ。こころの問題なんぞはないゾ、めしのくいかたが悪いだけだ。仮に、こころの問題があったにしても、めしのくいかたで解決するもんだ、と言いたい。それが、ジャンクライフの奥義、「飯即是活」の立場であり方法なのである。
  充実感と解放感のある確かなめし。心身共に癒やされ元気のでる大衆食堂のめしを、見直してみよう。

  ●あそこで暮らしたことがある、
  といえるのは、あそこのめしを食ったことがある、といえる場合である●
  では、「東京で暮らした」「東京で生きた」とおなじ意味で「東京のめしを食った」といえるだろうか。いまでもいい、いま、「東京で暮らしている、生きている」ことを、「東京のめしを食ってる」といえるだろうか、いえるとしたら、どんなめしの食い方をしているのだろうか。
  ひるがえって、田舎のめしを食ったとき、そう、田舎のめしを食ったといえるのは、その土地の名産名物を食ったぐらいじゃ、いくら食ってもだめで、土地のひとと交わりを深めながら食っためしがあったればこそである。

  そんなこんなで、「東京のめしを食った」といえるのは、東京の大衆食堂のめしをあるていど食っている場合である、ということを、おれは全力で言い切りたい。
 
  東京暮らしをしているだけで偉くなったつもりのやつがいるので、あらかじめお断りしておきたい。正しい東京暮らしをしたからといって、別に偉いわけでもなんでもない。ただ人間、生きているというのは、たいがいどこかの土地で暮らしているのである。そういう意味で、東京の土地で暮らしたということを、正しく表現するなら、やはり東京のめしを食ったといえなくてはいけないし、それなら、東京の大衆食堂のめしをあるていど食っていなくてはダメだろう、ということである。
  そもそも、土地のひとと交わりを深めながらめしを食うといっても、相手が土地のひとでない、なるべくそのときそのときのビジネス関係だけにしたいと思っているなら、こちらがいくら望んでも交流は成立しない。
  とくに東京は、なにごともビジネス優先で成り立っている。東京はビジネスをするところで生活するところではないと、割り切っている連中もすくなくない。汚染拡大、地代上昇、人間関係希薄化などは、カネ儲けのためにはしかたないよ。日本の大衆をダシにたんまり儲けたら、別荘へ脱出、海外へ脱出、そこで人間らしさを回復しよう。まったく、こいつら、カスだけ残して出て行こうという腹だ。
  しかし食堂である。ペッとはがそうとすると土地まではげそうなほど土地にへばりついている。人間交流をもとにした生業、つまり渡世をつづけている。これは言葉にすると簡単だが、職住分離があたりまえ、ビジネス関係であらずば人間関係でないという世問では、たいへんなことなのである。たんとはないことなのである。となれば、あとはこちらしだいである。
  無理矢理ボランティア活動をしたり、外国でホームステイまでして、生きがいやこころのふれあいを求めることはない。それこそ、他人のこころをもてあそぶ失礼無礼傲慢ではないか。
  ある西欧文化の国へ、国際交流を深めるために税金で派遣された少女がいた。ホームステイ先で、名所旧跡紹介のように、例によって着物・富士山・東京タワー文化のたぐいの日本の話をしたらしい。東京タワーが東京都庁になったところでなんらかわらないし、こんな話で日本を紹介するというのもおかしなことだが、少女に罪はない。あちらに行ったらワタシタチのことを、こんな風に話しましょうね、という大勢にしたがったまでだ。難民救済ボランティア野郎にも、貧困の子供たちのまえで、ワタシタチのニツポンはこうだよ、と、着物の絵や富士山の写真などをみせてるやつがいるという。で少女は、そのての話をしている最中に、ホームステイ先の御夫婦に、わたしたちは一生働いても日本にいけそうにないからそんな話は興味ない、とハッキリいわれてしまったのである。そこで、少女は、ギョッとする。すこしは考えたらしいが、ショックから立ち直れないまま帰国。その詳細はともかく、こころのふれあい、国際交流とかいっても、すでに、「生きる」ってどういうことか、人間交流とはどんなものかがわからなくなった、トウキョウ・ジャパンがあるのだ。
  おれはつくづく、食堂のめしをくっていれば、少女はもっと人間らしい交流をしてこれただろうにと思うのだった。

  ●オメデタイ東京観光遊泳●
  であるからして、ああだこうだいうより、東京を離れたところで、「オレ、東京のめし食っていたんだ」というふうに、東京暮らしを語ろうとしたときのことを想像してみよう。
  そのばあい、渋谷のどこどこには、ホラあの雑誌にのっていた、これこれの店があってこんなうまいもの食わせてくれるし、代官山のあの坂をくだって細い道を右にはいって、するとその一角に昔ながらの木造があってね、その三軒目の看板はないんだけど、そこの扉をあけるのね、するとニューヨークヘしょっちゅう行ったり来たりしている御主人がいてね、雑誌の取材は絶対おことわりというところで、有名人のだれそれはくるし、それが……と、こんな話をしながら、アレッ、おれってほんとうに東京暮らしをしていたんだろうか、東京のめしを食ってるといえるんだろうか、と、矛盾に目覚めないやつはよほどオメデタイ。
  もちろん、コンビニ弁当やマクドナルドのハンバーガーや吉野家の牛丼やロイヤルホストのサラダなどをいくら食っても、東京暮らしにはならない。
  なぜなら、こんなことは、東京タワーにのぼった、二重橋をみた、だから東京で暮らした、という話と本質的にかわるところがないし、よくある、オレはね、あの有名人の孫の友達のおばさんの妹のいる学校の女子大生のヒモだよ、という話とナンラかわるところがないのである。どこまでも東京観光遊泳にすぎない。どこにも、自身の姿というのがない。
  実際、東京というところは、何十年いても、ビジネス関係の人間のあいだを遊泳し、観光鑑賞感心しているだけで時が消えてゆくところなのである。あるいは、電話とファックスと配達があればすむような日々で終わる。そこには人柄と肉声のふれあいはない。
  東京のめしは、いま、ビジネスの手により、美的脅迫観念に侵された「文化的」給食か、極端なまでシステム化された「機械的」給食かへと変貌した。それは、めしが天来もつ野性と、めしとなる過程の人柄と肉声のすべてを奪い、人々を閉塞に追い込む。
  こういうおれも、ときどき外食産業のめしやコンビニのにぎりめしのやっかいになる。このあいだシェーキーズでピザをくったときは、頭上にとても見事なニセモノのグリーンがぐるり飾ってあって、アーリーアメリカンの気分なのかどうか、でかい羽根の扇風機がゆっくりまわっていて、グリーンの上に積もっているほこりを、とても優雅にまきちらすのだった。ピザをくうのになぜこんな演出が必要なのだろうか。
  きわめつけは、コンビニで買ってきた、にぎりめし二個入りが二五〇円。にぎりめしが泣いてよろこびそうな立派な装いである。白い発泡スチロールのトレーにのっかり、ラップに包まれ、ラベルがはってある。これは、にぎりめしをくったあとにも残り、税金で処理される。
  そのラベルには、なんとコンピューター印刷で、こうある。製造は何年の何月何日の何時、賞味期限は何年の何月何日の何時。そして、添加物は、なんと、調味料(アミノ酸等)、PH調整剤、グリシン、着色料(赤102、赤104、黄4、黄5)などである。そして、なんと、製造工場は茨城県なのだ。
  これを見て、おれたちの生活は、なんかとんでもないところに来てしまったと思った。こういう過程で、めしの精気はすっかり失われる。おれだって寒々しい気分になる。
  おれたちは、「オレハラヘッタ、ショクドウにハイツタ、メシクッタ、ハラフクレタ、ウマカッタ」という、確かな充実感と解放感のなかにめしをとりもどすべきだ。「生きる」あるいは「暮らす」ということは、もっと野性的であるはずだ。

  ●おお笹塚・常磐食堂●
  おれが東京で独り暮らしをはじめたのは、映画「ウエスト・サイド物語」が前年からロングランを続けていた一九六二年のことで、昭和三七年の春である。
  いまのハンバーガーショツプみたいに、食堂は目立つ存在だった。駅前や商店街などに、探すまでもなく見つかった。大きな暖簾・看板に、汗がしたたる筋肉質の太い筆文字。それが、なんともいえず猥雑で、パワフルで、よかった。なかの雰囲気もそうだった。
  初めて入った食堂がどこか忘れたけど、ごく自然に入って行ったことはたしかだ。
  腹がへったらそのへんの大衆食堂に入る――これは、ふつうのことだったのである。
  いまどきの上京したての若者、学生はどうだろうか。どうでもいいことだが、気になった。
  どう食堂にやってくるのだろうか。渋谷区・京王線笹塚駅南側、観音通り商店街の入口すぐのところにある「常磐食堂」の男主人に聞いた。
  常磐食堂はこれからもときどき登場する。なぜなら、おれが学生時代に利用したころ、ほぼそのままの、懐かしの食堂だからだ。それに大正八年の創業というから、「大衆食堂の歴史」をほぼすべて生きぬいているのだ。
  ほんとうは、六四年頃から一、二年問は、笹塚駅北の甲州街道側にある食堂のほうが何かと都合がよく、常磐食堂より利用する機会が多かったように記憶していた。そこを探したのだがみつからない。食堂の名前も記憶にない。なにしろ笹塚のへんはまるで変わってしまった。渋谷区らしいオシャレが駅周辺を固め、ジャンクなたたずまいは点と線になっている。
  その話を常磐食堂ですると、男主人は「あれは、すずか(鈴鹿)、といって、一番上の兄貴がやっていたところです」といった。しかもなんと、その御長男は、数日前に群馬県伊勢崎でお亡くなりになって、常磐の御夫婦は葬式からもどってきたばかりだったのである。こんなことがあるのだ。ああ、おれはひとの助けがなくては思い出せないことが多くなった歳なのに、もうあの食堂の御主人の話をきくことはできない。黙祷。

  ●現代食堂母子関係●
  常磐食堂の男主人の話によると、ちかごろの上京したての学生は、母親に連れられてくるそうだ。母親が、ここでちゃんと食事をするのですよ、とか言い聞かせているそうである。
  それに、入学試験のころにあらわれるという。なんということだ、試験の結果に関係なく住まいを決めているのだ。落ちたら、そのまま予備校通いということなんだろうか。
  だいたい笹塚あたりは家賃が高くなって、貧乏学生など住めるところではなくなった。「恵まれた学生」が多いのだろうか。しかし見たところ、貧乏くさい学生もめしをくっている。やっぱり学生は、カネをもっているかどうかに関係なく、貧乏くさいのがいい。
  ともかくそれで、最初の一ヵ月くらいは毎日のようにくる。そのうちに友達もできていろいろおぼえるのだろう、一年くらい姿をみせなくなる。そのあと、ひょっこりあらわれる。「おじさん元気?」とか言って。「おう、どうしていた」とか言い返したりするそうだ。その後、またときどき顔を出すようになる。これが、ひとつの傾向なのだそうだ。
  ほかには、常磐を「卒業」していった先輩や親に教えられて、初めてくるひともいるという。
  なるほど、やっぱりね。どう考えたらいいのだろう、日本にはまだ正しい親がいるのだと思った。それはマザコン学生を育てる親でもある。でも、マザコン学生は親がつくったのではなく、心理学者や産業がつくったのかもしれない。それに、母親は、食堂で自立できるかもしれないという、教育的効果を期待しているかもしれない。いやちがうな。食堂のように地味なところでめしをくわせておけば、悪いアソビや悪いオンナをおぼえて道をはずすことがあるまいと、どこまでも保護者の発想なのではないか。いろいろ考えが錯綜するのだった。
 しかし、三〇数年前だって、けっこう親子の過保護関係はあったらしい。常磐食堂では、そのころは「帳面」があったそうである。これは、つまりツケである。めしをくうとノートに記録し、それを一カ月ごとにまとめて、親元に請求するというしかけだ。これは、食堂と客の親密な関係が偲ばれる話である。が、ようするに過保護というのは、どんな時代でも、愛情ではなく、親の心配であり、カネで成立するものであることも証明する。
  サラリーマンも「帳面」をすることがあって、その場合は、もちろん本人が払う。気前がいいのか用心深いのか、サラリーマンは先に金を渡しておいて、そこから「帳面」でマイナスするという仕組みもあったという。それにしても、アア、あの「帳面」。あれこそ地域の暮らしがあったことの証明でもあるのだ。アア、アア、あの時代はよかった。
  でも、おれは、この話を聞きながら、カビ臭いグレーのハーフコートを質入れしたときのことを思い出した。常磐食堂から西へ行ったところ、玉川上水の近くにあった質屋に、最初から流すつもりで持って行ったのだ。めしをくうカネが欲しかった。明日になったら強盗殺人をするかもしれない。寒々とした薄暗い電球の下で、学生証を差し出し、質屋のおやじにブチブチいわれながらナンダカンダ頼みこんだ。おれの目は殺意に燃えていたかもしれない。そのうち、じゃあといって、五百円だしてくれた。それをもって、すぐ常磐食堂へ行ったのだ。たしか、七十円ぐらいで十分満足のいくめしがくえたという記憶がある。
  汚い玉川上水そばの三畳一間の小さな下宿は、半間の押入れに半間のガス・水道付の炊事場があって、家賃は四〇〇〇円ぐらいだったかな?
  ということで、ちょっとノスタルジーセンチメンタルをやってしまいました。
  ま、ともかく大衆食堂でめしくうのはあたりまえだったのである。上京したての田舎者にとっても、特別のことではなかった。いや大衆食堂こそ、田舎臭いまま、堂々と入れたところだったのである。
  そこには、「オレハラヘッタ、ショクドウにハイッタ、メシクッタ、ハラフクレタ、ウマカッタ」という気分になれる食堂のめしと人柄があったのである。これこそ生存の根源である。食うことに、これ以上なにを望む必要があっただろう。


■注→文中の「常磐食堂」は「常盤食堂」の誤り。
■ご参考→ザ大衆食「常盤食堂」 「大衆食堂の真相」


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