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『大衆食堂の研究』復刻HTML版          エンテツ資料棚『大衆食堂の研究』もくじ


あとがき

  この本でくそまじめに食生活を考えてほしい、といったら笑われるだろうか。
  でもおれはくそまじめにくうことを考えていた。
  どんなめしのくいかたをすべきかということについて、おれたちは何も考えなくなっているように思う。そして、こんな基準で食生活を判断することになれきっている。
  一、貧しいか、豊であるか、あるいは贅沢か。
  二、便利かどうか。
  三、新しいかどうか。
  だいたいコンビニていどの豊かさと便利さと新しさが、都会的生活の象徴であり、相場になっているようだ。
  そのことに異議申し立てをしようというわけではないが、食生活へはもっといろいろなアプローチがあっていいはずだ。
  注文してから何分でできあがり盛りつけがどうで、味がどうで、雰囲気がどうでなどと外食を評価することは悪くはないが、めしくうということは、はたしてそれだけかということを、おれたちはもっと考えてみる必要があるのだ。
  と、偉そうなことを言うおれ。じつは、この本の最初の企画では、こんなふうになるはずではなかった。古色蒼然昭和三十年代大賞の食堂は亀戸の川崎屋と西日暮里の竹屋食堂と駒込のたぬき食堂。新しいスタイルがいいで賞は信濃町のあいざわと下北沢の千草。がんばっている駅前食堂はどこ。女主人の素敵な食堂はどこ。がんこおやじの食堂はどこ。大衆食堂の暖簾の歴史、さば味噌煮の探究、などとかやって、とにかくメニュー一覧をやる、というつもりだったのだ。ところが、やっぱり大衆食堂は深い。めしくうってのは、食い物を口に入れるだけじゃないゾってところがあって、ついつい根がまじめなおれは、そこを考えてしまった。
  めしってのはすべての始まりで、そして集結点でもあるから、もっといろいろな角度からアプローチしてみなくてはならない。
  そもそも人間がめしをくうということは、あの立ちションベンのときの、充実感とか解放感という言葉であらわされる感覚の延長線上にある、「元気」のためじゃなかったのか。それが、どうしてこうまで美味だの本物だのにウンチクかたむけ、いじましいほど健康だの美容だのに気をつかい、情報に追い立てられるような食生活をしなくてはならないのか。もっとおれたちは逞しいはずだし、もっと元気がでるめしのくいかたができるはずではないのか。そこらへんから考え直してみなくてはならん。などと思案にふけりだした。
  この仕事がはじまったのはいつのことか忘れたが、たぶん二年以上はたっている。大衆食堂研究会みたいなものでもやるか、ということになって、おれの推薦の大衆食堂を食べ歩くことになった。食堂の食べ歩きなどは邪道だが、この際しかたがない。いちおう「大衆食堂を食べる会」という名称で、三一書房の野崎雄三さんと知る人ぞ知るあのなんとか料理屋をやっているパオの嶋岡尚子さんとおれという面子で食べ歩いた。この三人の腐れ縁は、十数年前に江原恵さんの『カレーライスの話』を出版する仕事からはじまった。
  そして、おれがうじうじまじめに考えて心情的に流れているうちに、あっというまに時間がすぎた。野崎さんも嶋岡さんも行方知れずの風来坊のおれとよくつきあってくださいました。
  正直のところ、ネタは古くなるし、店仕舞いをするところもある。川崎屋のじいさんはいつまでやれるか気掛りである。先日たぬき食堂に電話をしたら、入院中だったおばさんの容体がよくないということだった。心配だ。食堂のひとたちは高齢化している。はやく本にしないと、食堂がなくなってしまいはしないか。おれは突然あせっている。それはそれで、ひとまずこれで〆にした。


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